●夢のなかでアパートを追い出され、なんとか似たような条件の部屋をみつけ、ようやく引っ越しがすんでホッとしたところで、自分の部屋で目が覚めた。なんかすごい徒労感が…。
●『あいにくの雨で』(麻耶雄嵩)を読んだ。麻耶雄嵩の小説には、自分のなかに予め他人がビルドインされているという感覚と、世界の手前に留まりつづけ、世界を成立させないという意思があるように思う。前者は、多重人格というよりむしろ離人症的な感覚としてあらわれ、後者は、謎の解明によって真理が明かされるのではなく、謎の解明が世界から根拠を奪うという形の物語としてあらわれる。本作もそれはかわらず、しかしその感触が妄想的な別世界をつくりあげ、そこで大きなほら話が語られるという形にはならない。前者の感覚は、三人称で視点人物が一人という形式によってシンプルに示される。ほぼ一人称なのだが、ただ通常「私は…」と書かれるところだけが「烏兎は…」という固有名に書き換えられている感じ。それは自分のことを他人事として語るかのようなちょっとした距離を生むだけでなく、そのよう形で烏兎と獅子丸との分身的で反転的な関係が語られる時、視点としてはあきらかに烏兎の方にありつつも、名において同等であることで、(内面が描かれることのない)獅子丸が烏兎の無意識中にいる(意識から常に逃れつづけている)幻のもう一人であるかのような感触が強く出くる。この感触は、二人の直接対決となるクライマックスで最大となる。
だが、この小説を読んで最も強く感じたのは、以上のこととはまたちょっと違う、下記のようなことだった。それは、獅子丸にとって二人の対決は、策略対直感という枠組みであったが、烏兎のもつ能力(直感)とは、そのような対立構図そのものに疑問をもつ能力のことであった、という点だ。つまり直感とは、策略対直感というフレームに拘束されないところで(それを前提としなくても)はたらくなにかしらの能力(気づき)のことなのだ。
●議論という形態に対してどうしても抱いてしまう不信は、それがあらかじめある「自分の立場」を防衛するという構えを含んでしまうという点にある。それはたんに自己防衛ということだけではなく、そもそも、純粋なゲームとしてのディベートでも、任意に与えられた「ある立場」を可能な限り維持するという前提がなければゲームは成り立たない。
それは、ある程度共有された枠組みが設定された中で、対立を通して妥当性や細部の精度が検証されるという時には有効だと思うけど、その枠組みそれ自体(そういう「対立」を設定することは適当なのか)を問うことや、それを別のものへ(別の構えへと)発展させ、つくりかえてゆくという形にはなりにくいように思う。というか、対立的な突っ込みと防衛の応酬による細かい検証の行程は、むしろ全体の(既成の)枠組みを強化し、硬直化させてしまう傾向があるように感じられる。
あるいは、議論が、ある共通の目標をもった協力関係にある者たちだけの間で閉じられて(相互触発として、相互検証として)行われ場合はいいとしても、それが開かれた場で、第三者(オーディエンス)を前提になされる場合、議論そのものよりも、第三者に対するアピール度や説得力の問題の方が大きく出てきてしまう傾向があり、このことがまた、固定された「ある立場」の強化をうながす方向へ行きやすいように思われる。
●自らの行為を純粋なゲームのように思っている(思いたがっている)獅子丸もまた、父への憎悪や矢的への信頼(裏切り)という感情(自分の立場)に強く拘束されている(何よりも高い知的能力を持っているにもかかわらずそれに気づくことが出来ないというその事実=ブランクによってその強い拘束が証明されている)。一方、獅子丸に対する信頼に強く依存し、そのような立場からすれば真実を知りたくないはずの烏兎が、ちょっとした気づきから、決して到達したくはなかった真実に(ほぼ自動的に)到達してしまう。しかしここで、烏兎にははじめから対決という意識はないし、真実へ到達したことは対決などとは何の関係もないたんなる事実=悲劇であり、そこに勝利などない。ただたんに、獅子丸が、一人で勝手つくったルールに一人で勝手に負けたにすぎない。
●『あいにくの雨で』から見えてくることは、そういうことなのではないかと思った。ただ、ミステリという形式だとどうしても、成立しているかのようにみえたフレームが揺るがされ、新たに建て直され、また無効にされ、を繰り返すうちに、世界の根拠そのものが失われるところにまで行く、ところで終わってしまうことになるんだなあ、とも思う。ここから、もっとちがった方向へも行けるはずなのだと思う。