●つづき、「黒つぐみ」についての四回目。
みっつめの物語は母にまつわる話だ。その話を語りはじめると《彼は一段と自信がなくなったようにみえた》。実際、ひとつめの話とふたつめの話の間に何かしらの共通性があるということは、直感的には誰にも納得できそうなことだ。しかし、みっつめの話は必ずしもそうではない。
《この母を彼はそれほど愛してはいなかった。しかし彼のいうところでは、そうではなかった。ぼくらがしっくりいかなかったのは、うわべだけの話さ---と彼はいった---女が何十年も同じ田舎町に住んだまま年をとり、一方息子は、彼女のみるところではさっぱりものにならない、そんな場合にはしっくりいかないのがむしろあたりまえのことだ。母とむかいあっていると、ぼくは影像をほんの心もち引きのばす鏡の前にいるように落ち着かなくなった。》
ここで言われているのは、A2と母との関係が、少なくとも表面上は確かに《しっくりいかなかった》ということであり、しかしそれは事実ではあっても《うわべだけの話》だということだ。実際、A2は、《長年(…)家にもどらなかった》し、母はそのことに《気分を害していた》。にもかかわらず、《結局母と深く結びついていたのだ、のちになってようやくそれがはっきりしたのだ》とA2は言う。ここには、幼なじみという関係が、《相手の顔を見るさえ不愉快》だったとしても、それが《最上の友情》であるのだとされることと重なるものがあるようにも思える(関係-形式の不動性、抽象性)。
表面上はしっくりいかなくても、実は深く結びついている。このアンビバレントはしかし、たんに腐れ縁といったものを超えるより複雑な事態なのだ。A2の商売がうまくいかない時期に、母は彼に、《わたしたちはおまえを助けてあげることはできません、けれどもしわずかな遺産でもお前の助けになるのなら、わたしはよろこんで死にたいと思います》という手紙を書く。しかしA2は、《それをいささか大仰な切り口上にすぎないと思》い、《そんな文句になんの意味があるとも考えなかった》。ところが、《母はほんとうに病気になったのだ》。
《しかし奇妙なのはまたしても付随的な事情だった。母はすこしも死にたくはなかったのだ。彼女が時ならぬ死に逆らい、ひどく嘆き悲しんだことをぼくは知っている。彼女の生への意思、彼女の決断、彼女の願望は、みなこの死という出来事に反抗していた。瞬間的な意思に反して持続的な性格が決をくだしたのだということもできない。なぜなら、もしそうだとすれば、母はもっと前に自殺や自発的な財産の放棄を考えてもよかったのだが、そんなことはほんのこればかりもなかったのだから。彼女は文字通り、一個の犠牲だったのだ。》
だが、そうであるにもかかわらず…
《とにかくぼくが、母が病気になったと聞いたときすぐさま完全な自発性の印象を受けたのはたしかだった。みんなおまえの空想にすぎぬと思うかもしれないが、母の発病の知らせを受けとった瞬間、何も憂慮する理由はなかったのに、ぼくが見る間にすっかり変わってしまったということは、否定しえない事実なのだ。ぼくをとりかこんでいた硬さがたちどころに溶けて消えうせてしまった。それ以後のぼくの状態は、ぼくがわが家を去ったあの夜の目覚め、あるいは高みから落下して来るうたう飛箭を待ちうける気持ちと、たいへんよく似ていたとしかいえない。》
母は決して死にたいとは思っていなかった。にも拘わらず、母の死は自発的な犠牲であった。ここにより大きなアンビバレントがある。しかし、これはあまりにA2にとっての自分に都合よい解釈であり、いくらなんでもそれはないだろうと、普通なら感じるはずだ。意識の表面上では嫌がっていても、もっと奥深い次元で作動する《根源的決断》が、息子を救うために自らを犠牲にしたのだ、という話を、(この部分だけを読んで)そう簡単に納得するわけにはいかない。
確かにここには、死が、自らの身という場へと指定されることによって、逆に生の湧出を感じたという、戦場の歌う飛箭体験に似た相反するベクトルの両立のような事態があるとも言える。しかしここでは、死が訪れるのはA2と決して折り合いがよいとはいえなかった母であり、それを犠牲と感じるのはA2なのだった。
事実として、ここで起こっていることは何か。母が病気で亡くなり(次いで父も母に連れられるように亡くなり)、両親の遺産によって、おそらくA2は経済的な危機を脱することが出来た、ということだろう。これだけを見ると、困った時に実に都合よく両親が死んでくれて助かった、という気持ちを持つことのうしろめたさを、母が自らを犠牲にしてくれたと思い込むことで誤魔化しているようにみえてしまう。
●だが、もう少し注意深く読めば、ここでA2が問題にしているのは、《母の発病の知らせを受けとった瞬間》であり、その瞬間が前のふたつの出来事ととても似ていたということなのだ。そして、前の二つの出来事とは、そこで世界が(あるいは自分自身が)裏返るかのような経験であった。ナイチンゲール/黒つぐみの声を聴いた時、A2は、《何かがぼくを折り返してしまったような気がする》と感じ、《ぼくはもはや彫像ではなく、内部へ陥没した存在だった》と感じる。そしてそれは同時に、ある境の向こう側へ行ってしまった、つまり、それまでの現在が決定的に過ぎ去ってしまったという感覚でもあるのだ。
《ある感情が山にトンネルをうがちでもするように、ひとつの心臓に穴をあけて行く、すると山のむこう側には同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界がひろがっている、というわけだ。》
ここでは、A2を高揚させた鳴き声がナイチンゲール(真)のものであったのか、黒つぐみ(偽)のものであったのかが問題にされているのではなかった。そうではなく、その鳴き声が世界全体をひっくり返し、A2を《同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界》へと連れ去ってしまったということなのだ。そこは既に、同じ部屋ではあっても別の世界であり、その世界では妻への愛は既に過ぎ去ったものとなってしまっていた(同じでも別の世界、は、同じ部屋が反復する集合住宅の空間によって準備された)。
みっつめの話でも、母は、死にたくなかったのかもしれないし、根源的決断によって犠牲を選んだのかもしれない。それは本当のところ誰にも分からない。しかし、(A2にとってあまりにタイムリーな?)母の発病という事実が、A2に、鳥の声や飛箭の歌と同等の効果を与え、それが分岐点となって、世界が裏返って《同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界》へと変化してしまったということが重要なのだとはいえないか。
《(…)重い病気とか治癒とか、成算おぼつかない戦いとか、すべて運命の分岐点においては、からだ全体による一種の根源的決断が現れる…》。
勿論、これで完全に納得が出来るわけではない。特に、根源的決断を行うのが、ある個体の《からだ全体》であるということには、特にふたつめの、歌う飛箭の出来事は回収されないであろう。それは、これまでのこの小説世界を矮小化してしまっているようにも感じられる。とはいえ、これが決して「世界全体」ではなく《からだ全体》と書かれなければならないところに、この小説全体を律しているある境界線があるようにも感じられる。
充分に納得できたとまでは言えないが、ここまでである一定のひっかかりは得られたように思われる。
●そして、小説はここで終わるわけではない。母の死によって家へと戻ったA2は、《ぼく自身のかたわらを過ぎ去った》と思っていた自身の過去と出会うことになる。おそらく、みっつめの物語は、ここから先が重要なのだ。
ところで、ベルリン時代のA2は、自らの存在が両親によって「贈られた」ものであることを度々意識していた。
《君も知ってのとおり、ぼくはもうそのころ両親となんの交渉も持っていないといってよかった。しかし突然こんな文句が頭にひらめいた---彼ら汝に生命をあたえたるなり。この変な文句が、追っても追っても追いきれない蠅のように、性こりもなく幾度も舞いもどって来た。》
《しかもぼくにとって、きわめて奇妙、というより文字どおりひとつの神秘のようにさえ思われたのは、それを望んだかどうかは別にして、ともかくぼくに贈物がされたということ、そのうえそれが他のいっさいの基盤をなすものだったということだった。》
だがここで、「母の犠牲」もまた、A2への《贈物》であるのだとすれば、それはやはり安易であるように思われる。母による贈物とは、A2の窮地を救ったかもしれない両親の遺産などではなく、「A2自身」であったのではないか。それは、母の生前にはA2にとってうとましいものとしか感じられなかった《ぼくという写しの原本である》かのような彼自身であったのではないだろうか。母は、自らの死によって、A2にとっての《原本》を、彼自身のもとへと返した、と、そういうことなのではないか。母の病気を知ったとたんに《ぼくをとりかこんでいた硬さがたちどころに溶けて消えうせてしまった》というのは、A2が、それを受け入れられる状態へと変化したということなのではないか。
しかしそれでもなお、《ぼくという写しの原本》という(本質主義的な)言い方にはまだ納得できない響きが残る。そのような言い方は、《沈んでいったすべての太陽が、まだどこか光と闇のあいだにただよっているとでもいうよう》な幻影なのではなかったか。本来のA2自身が、母の死によって彼のもとへと返されたという話は、分かり易過ぎる分、陳腐でもある。では、彼のもとへと贈られた過去の彼自身は、《原本》というようなものとどのように違っているのか。
つづく。