●今日読んでいた小説の、特に心に強く残った部分を引用する。作家名もタイトルも記さないが、とても印象的な場面なので、一度でも読んだ人にはすぐに分かると思う。
《ぽつぽつと点されたろうそくの小さな光の上を、幽霊のような演歌が漂っていた。「母の、小さな、てぶくろを」日本の演歌を良いと感じてしまったのは、私の人生のなかで初めての体験だった。「忘れもしない、母の、小さな、てぶくろを」不覚にも演歌が良いなどと感じてしまったことを恥じて、テーブルの向かい側に座る遠藤さんにはなんとか気づかせまいと必死だったが、この湿った暗い曲調とありふれた歌詞が、そのときだけはどうしてなのか、私たちがふだん営んでいる社会的な、常識的な生活よりもよほど明快な摂理のように思われてならなかった。「小さな、てぶくろを、雨の降る日の」演歌に導かれて、自分は昔の恋愛のことを、日本にいたころ付きあっていた女性との性的な関係を思い出しているのかと思った。そういうことを連想させない歌詞だったので、逆にいかにもあり得そうなことだった。だがそうでもなかった。思い出すという作業そのものにいつもつきまとう何かのほうを懐かしく感じているようだった。いずれにせよ、こういう酒場の日々から抜け出して、だんだんと店に顔を出さなくなって、私はトーリと過ごすようになっていったわけだ。だから、気をつけろ。遠藤さんの言うことも一理あるように思えた。たしかに私は気をつけなければならなかった。だが、これもずっと後になってからいえることなのだが、ふたつの状態のあいだの違いはそれほど大きいものではなかったのかもしれないのだ。》
たったこれだけの分量のなかに、何と膨大なことが書き込まれていることか、と思う。
アメリカで、日本人たちがあつまる日本料理屋。同じようなメンバーで毎日繰り返される味気ない食事と同じ演歌のテープ。大雨によるふいの停電と、電気が消えた後にも流れる演歌。ここで《私》は、予期せずこの演歌を「良い」と感じてしまったことに戸惑いつつ、《日本にいたころ付きあっていた女性との性的な関係》を思い出しているようだ。だがしかし、それは《私》本人によって否定され、実は《思い出すという作業そのものにいつもつきまとう何か》を思い出していたのだ、と言い直される。しかし当然のことだが、書かれていることは消されないかぎり、否定されても存在しつづける。特にこの作家の小説では、一見なめらかに繋がっていると思われる事柄が否定されたり、矛盾するようなことこそが順接されたりと、ことさら逆説を好む傾向にあるので、その「繋ぎ方」を素直に受けることは出来ない。《私》はここで、《日本にいたころ付きあっていた女性との性的な関係》を演歌のテープによって思い出させられてしまったからこそ、この出来事の後、日本人男性たちとのコミュニティから離れてデトロイトのクラブへ赴き、その行為がトーリという女性との関係を呼び寄せてしまったかのようにみえる(《私》が何故、たった一度だけデトロイトのクラブへ行ったのかという理由は、この小説では明かされない、《私》は、演歌のテープに抗するように、しかしその実、演歌のテープに導かれて、クラブへ赴いたのではないだろうか)。だが同時に、この演歌が《私》に、《思い出すという作業そのものにいつもつきまとう何か》を《懐かしく》思い出させたというのもまた、間違いのない事実であろう。それは、この演歌が《「母の、小さな、てぶくろを」》という歌詞をもつことからも、すんなり納得させられる。そこに、どのような内容も代入可能な形式としてある「《思い出すという作業》そのものにつきまとう《懐かしさ》」とは、まさに《母の、ちいさな、てぶくろ》として形象化されるような何かであるだろう。だとすればここで、《私》に《日本にいたころ付きあっていた女性との性的な関係》を思い出させ、それによって(日本人男性たちだけのコミュニティから飛び出て)トーリとの関係へと導いたものとは、《母の、小さな、てぶくろ》であり、つまり「母の磁力」ということになる。この作家の小説では、この作品の次の作品から、非常に強力な「母の磁力」が前景化されるのだが、その力は既にこの作品でも強く働いている。
だが同時に、ここであらわれる「母の磁力」とは、せいぜい安っぽい演歌のテープから《私》が勝手に妄想したものに過ぎない、という側面もある。彼をデトロイトのクラブへと赴かせた力は、実はたんに「性欲」であるとも言えるのだ。演歌のテープから《日本にいたころ付きあっていた女性との性的な関係》を思い出したのは、「母の磁力」ではなく、たんに「たまっていた」からに過ぎないのかもしれない。この作家の小説において非常に力強く作用する世界の絶対的法則であるかのような「母の磁力」は、同時に、非常にいいかげんで胡散臭い妄想(言い訳)でしかないかもしれないのだ。この小説の描き出し、《日本に帰るまえに、どうしてもアメリカの女と寝ておかなければならない》の、「ならない」という強い断定の調子は、既に決定された決まり事に従わなければならないということなのか、それとも、そうせずにはいられないという強い欲望に促されて(流されて)のことなのか、そのどちらでもあり得るということからも明らかだと思われる。その、場合によってはどちらにも転び得る危うさこそが、この作家の小説の運動をたちあげ、駆動させ、紋切り型や退屈さから引き剥がし、常に新鮮なものにしている。だから、この作家の小説における「母の磁力」や「女たちの陰謀」を、けっして単調な説明原理としてはならないのだ。それははじめから常に、深淵であると同時に薄っぺらだ。(これは「文藝」秋号の佐々木中によるこの作家の別の小説の書評---それは最新作を保留をつけながらも「後退」だとしている---に対する、ぼくなりの反論でもあります。つまりこの作家ははじめから「端的な死」の側にいるのではなく、「人間的な死」と「端的な死」との間にいて、その場その場で、そのどちらにも転び得るものとして反転しつづけている様こそを、問題にしているのだと思われる、ということです。)