2023/09/27

⚫︎U-NEXTで『ロリータ』(スタンリー・キューブリック)を観た。実は初めて観た。ナボコフの小説とは狙いが違うというか、焦点を違えて作っていると思うのだが、しかし、どこに焦点を当てて、どう違えているのかがはっきりみえなくて、イマイチよくわからない感じだった。

ロリータがハンバートに対して性的に挑発するような態度に出るのは、明らかに母親と娘の関係の中でなされる母に対する挑発で、その背後には母とクィルティとの関係があるようにみえる。映画では、ハンバートにとってロリータがアナベル・リーの反復であるという側面はバッサリと切られているから、ハンバートのロリータに対する欲望が、単なる妄想を超えたものへと展開していくのは、ハンバートの方が「ロリータと母との関係」の中に巻き込まれていくからで、欲望の主体は母娘関係の方にこそあるように感じられるようになっている。

ロリータの母には、ヨーロッパ的な教養や、ヨーロッパのプチプルの生活へのとても強い憧れ(執着)と劣等感があり、その一方で、プロテスタント的な禁欲的な規範意識も強いという、複雑かつ強烈な性質が担われており、ロリータの性格はそのような母への対抗的な意識によって形作られている側面があるように思われる。そんな中で、母の(脚本家・教養人・著名人)クィルティへの信奉をみて、ロリータは母から奪うような形で、クィルティと関係を持つ。このような欲望関係の素地(環境)が、ハンバートがロリータと母の前に現れるよりも前に既に出来上がっている。ハンバートは、既に張り巡らされている蜘蛛の巣の中に入り込んで獲物となる。

ロリータは、自分とクィルティとの関係を母には隠しているが、一方で、母に見せつけるかのように(クィティル同様に中年男性である)ハンバートに擦り寄っていく。つまりロリータは、「自分とクィルティとの関係」を、母に対して、「自分のハンバートに対する態度」として、匂わせるように表現していると言える。そして母の方も、成就するあてのない(自分に振り向く素振りもない)クィルティとの関係の代替物のようにして、(ヨーロッパから来たフランス文学研究者)ハンバートに近づいていくようにみえる。だからハンバートは、ロリータにとっても母にとってもクィルティの代替物で、しかしそんなことを知る由もないハンバートは、自ら主体的に、ロリータとの性的妄想をノートに書き綴り、バカな母親を自分の欲望のための手段としているかのように思い込む。

このように、欲望の網の目が複雑に絡み合っている序盤のところは、そこそこは面白いように思われた。ただ、母親の死で、ハンバートとロリータの二人だけの関係になると、ただただハンバートが嫉妬でおかしくなっていくだけの単調な展開になってしまうように思われる。ここにはもう一人、全てを操る影のようにクィルティがいるのだが、母がいなくなることで、クィルティが、たんに裏で手を引く黒幕、あるいはハンバートの嫉妬の真の対象でしかなくなってしまう。ロリータにしても、対抗する母がいなくなってしまえば、ハンバートに色目を使う動機は何もなく、ただ、保護者として確保しておく必要があるから、義務的に(やる気なさげに)媚態を見せるのみになる。そうなると、まあ、よくある紋切り型だよね、という感じに見えてしまって、うーん、何をやろうとしているのかなあ、となってしまう。

(ここで、嫉妬でおかしくなっていくハンバートを、もっとじっくりと、しつこく、高い解像度で描けば、リンチの映画のようになっていくのかも…。あるいは後年の『アイズ・ワイド・シャット』がそうなのかも。)

結婚し、妊娠したロリータにハンバートが会いに行く場面で、ハンバートは自分が初めからクィルティの代替物でしかなかったことを知る。ナボコフの小説では、ロリータもまたアナベル・リーの代替物でもあるので、お互い様とも言えるが、映画では、ハンバートにとってロリータは唯一の存在であるから、彼は自分の全財産をロリータに譲り、全てを失ったハンバートは、自分のオリジナルであるクィルティを殺しに行く。

追記。いや、ロリータがアナベル・リーの代替物だというのは違うか。そうではなく、ロリータはアナベル・リーの「反復」なので、つまりロリータはロリータそのものであるままでアナベル・リーで、だからロリータ=アナベル・リーとして本物なのだが、一方、ロリータにとってハンバートは選択することも、しないこともできる代替物に過ぎないのだから、これは「お互い様」ではないことになる。

⚫︎あの、よく耳にする曲は、『ロリータ』のための音楽だったのか(ベンチャーズによるカヴァーが有名なのか)。

Lolita Ya Ya - YouTube