●つづき、「黒つぐみ」について、六回目。
A2は三十余年前に子供部屋だった部屋で、《ほんとうにもう机の下に足が届かなかったのだよ》と言うような、《両端とも完全に固定してはいない》宙吊りの状態となる。A2はこれより前に、母の発病を知った時に《わが家を去ったあの夜の目覚め、あるいは高みから落下して来るうたう飛箭を待ちうける気持ちと、たいへんよく似》た感触を得たと語っていた。しかしこれは、実はこの子供部屋での状態を準備するものだったのではないだろうか。最初の黒つぐみ体験をベルリンの住宅の空間構造やそこでの生活が準備し、うたう飛箭体験を戦場の状況(自然と死の確率化)が準備していたように、母が(母の発病と死が)、そして子供部屋が、A2を「この状態」へと導いた、と。
そしてこの子供部屋で、A2は「ふたたび」黒つぐみと出会う。
《もうさっき聞いた話だ、と思ってはいけない。ここにはナイチンゲールはいない、黒つぐみだな、そう考えたとたんぼくははっきり目をさました。午前四時だった。(…)そのとき、しなやかな白い毛布のような光の前に、一羽の黒い鳥があけはなした窓辺にとまっていたのだ! その鳥がそこにとまっていたのは、今ぼくがここに坐っていると同じほどたしかなことだった。》
しかし、ベルリンでの以前の体験では、ナイチンゲールであるのか黒つぐみであるのか分からない、ある声を聴いただけではなかったか。黒つぐみは、A2の前に、はじめて、しかも同時に、既に済んでいた出会いの反復として、その姿をあらわす。あるいは、かつて黒つぐみと「既に」出会っていたからこそ、今、ここで、黒つぐみと「はじめて」出会うことが出来た。
《わたしがあんたの黒つぐみよ---と鳥はいった---わたしをおぼえていないの?
たしかにすぐ思い出すことはできなかった。しかし鳥が話しかけてきたときには、ぼくは非常な幸福感をあじわった。
この窓枠にもう一度とまったことがあるのよ、おぼえていなくって?---と鳥はことばをつづけた、やっとぼくも答えていった、そう、今君がいるところに、いつかとまったことがあったね、そこでぼくはあわてて窓をしめたっけ。》
A2は、かつて一度黒つぐみと出会ったことがあったのか。それとも、今、ここで起こった黒つぐみとの出会いによって、新たに過去が創造されたということなのか。ぼくには後者であるように感じられる。それは「記憶が捏造された」ということではなく、あくまで「過去が創造された」ということであるように思われる。このときA2は、《両端とも完全に固定してはいない》状態であるのだから、現在の出来事が、そのまま過去へと波及することもあるのではないだろうか。あるいは、A2は過去に黒つぐみに出会ったことがあったのと同じくらい、なかった。もし、今、ここで黒つぐみに会っていなかったとしたら、過去のA2も会っていないのだ。しかし、今、ここで黒つぐみと会った。だからA2はかつても会っていたということになる、と。
だから、もしこの出来事が前の二つの出来事と異なるとすれば、前のふたつは、くるっと宙返りすることで前と後ろを分離し、山の向こう側へ抜けてしまうような経験だったとすれば、ここので出来事は、宙吊りでいることによって前と後ろを繋いでしまったということなのではないだろうか。
《わたしはあなたのお母さんなのよ---と黒つぐみはいった。
そう、こういったのは夢だったかもしれない。だが鳥をみたのは夢ではなかった。(…)屋根裏へあがってぼくは大きな木製の鳥籠をさがした、前に黒つぐみを飼っていたことがあるので、つまり子供時代に、今いったとおりのことがあったので、そのときの籠があるはずだと思いついたのだ。そのとき鳥は窓枠にとまり、それから部屋のなかに舞いこんで来た、それで籠が必要になったのだった。しかし鳥はすぐ馴れたので、籠から出してやると、ぼくの部屋で気ままにくらし、窓から出たりはいったりしていた。そしある日、飛びたったままもうもどってこなかったのだが、今またここへ姿を現したというわけだった。ぼくは、はたして同じ黒つぐみかどうかなぞと七面倒くさく頭をひねりたくなかった。鳥籠といっしょに本を詰めた木箱ももうひとつ見つかった。》
これまでA2は、屋根裏部屋にあった子供の本をずっと読んで過ごしていたのだから、ここまで屋根裏の「鳥籠」の存在を見逃し、黒つぐみのことを思い出していないというのは不自然なことであり、また、籠といっしょに《木箱ももうひとつ見つかった》というのも、黒つぐみの出現によって、それらが新たに加わったような書かれ方であるように思われる。
しかし、ここでもっとも難解なのは何といっても《わたしはあんたのお母さんなのよ》と黒つぐみが口にするということであろう。素朴に読むとするならば、「えー、そこまで言っちゃうのはなんかクサくないか」とさえ感じるだろう。これをどう考えればいいのだろうか。
ここでは、では黒つぐみの到来は何をもたらしたのか、という点からこの問いに近づいてみたいと思う。
《黒つぐみを飼うことになったあの日からあとほどぼくが善人だったことは、生涯に一度もなかった。それだけは君にはっきりいえると思う。ただし、善人とは何か、それを説明することはちょっとできないだろうけれど。》
《だがぼくは黒つぐみの餌というやつを調達してやる必要があった、それにみみずもね。みみずを食うというだけでも少々やっかいなことだ、そこへもってきて、母としての待遇をしなくてはならないというわけだ---。だが実のところ、なんとかなるのさ、習慣にすぎないのだからね。これ以上日常茶飯に属することでも、習慣とする必要のない何があるだろうか! それ以来ぼくはもう黒つぐみを手ばなさなかった。》
黒つぐみがもたらしたものとは、過去との通路だったのではなかったか。それまでは、境を越えることで過去から切り離され、過去は向こう側へと去っていったのだが、黒つぐみによって、現在から過去へ、過去から現在への通行が開かれた。今、目の前に黒つぐみがいるのであれば、それは、かつても黒つぐみが何かしらの形でいたということだ。あるいは、かつて黒つぐみがいたのだとすれば、それはふたたび表れるのだ、ということでもあろう。
ここで《善人》と呼ばれているものは、おそらくそのような意味で過去とのつながりのなかにいる人、そのつながりを切断しないようにする人という程度の意味なのではないだろうか。
だが、前述したように、過去の「黒つぐみb」が、今、ここにあらわれた「黒つぐみa」によって創造されたのだとすれば、それは未来→過去への通路ではあっても、未来←過去という通路とはならないのではないだろうか。しかし、今、ここの黒つぐみは、何かしらの形での過去からの《贈物》であることは間違いがないはずであろう。それが正確に同じ「黒つぐみ」であったという保証はないとしても、それは何事かではあった。《はたして同じ黒つぐみかどうかなぞと七面倒くさく頭をひねりたくなかった》というA2の言葉は、まさにそのような態度の表明ではないか。ここで過去から伝えられるもの(贈物)は、記憶とは別の、記憶にひっかからないかもしれない何かなのではないか。それが何にしろ、過去から何かが贈られたのだ。だからこそ、今、ここにも、黒つぐみが現れた、ということ。
そしてA2は、そのような出来事に《母》を感じるのだ。黒つぐみが母そのものの生まれ変わり(あるいは、母の魂とか)であるかどうかが問題では、おそらくない。何しろ母は《獅子の性》と言われていていたのだから、そのような母がなぜ黒つぐみとして再生するのか分からなくなる。ここでまた、A2がベルリン時代に感じていたことを思い出したい。
《しかし突然こんな文句が頭にひらめいた---彼ら汝に生命をあたえたるなり。この変な文句が、追っても追っても追いきれない蠅のように、性こりもなく幾度も舞いもどって来た。》
《しかもぼくにとって、きわめて奇妙、というより文字どおりひとつの神秘のようにさえ思われたのは、それを望んだかどうかは別にして、ともかくぼくに贈物がされたということ、そのうえそれが他のいっさいの基盤をなすものだったということだった。》
私に対して、私という存在が贈物として与えられる。その贈物は、一義的には両親からのものだが、具体的な両親という存在に限定されるものではない。それ(現在の私)は過去からの贈物であり、その贈物である私が、贈物を与えてくれた過去へと影響を返してゆく。その、何者か定かではない何かを、A2は、黒つぐみであると同時に母でもあるもの、つまり、たんに黒つぐみ(固有の出来事、、存在、記憶)の反復ではない、それ以上のもの、あるいは、混ざりもののある不純な反復(おなじ黒つぐみかどうかはどうでもよい)として捉えているのではないか。だからこそA2は、厄介であったとしても、「それ」を、黒つぐみでもあり母でもあるものとして扱うのではないだろうか。過去から何ものかが贈られるが、それが何なのかは正確には分からない。しかしその通路、その贈物は尊重するのだ、と。何かはわからないものが、確かに耳には聞こえてくる、と。
《意味がわかっていれば、だいたい君に話す必要なぞなわけだ。だがとうやら、いっこう聞き分けられぬささやき声か、ただわけもないざわめきでも、耳にきこえてきたような感じがするらしいね。》
A2がA1に対してするこの話自体が、A2の体験を正確に伝えるかどうか分からない。そもそもA2自身がその意味を掴めていない。それでも、A2がするこの話は、A1の耳に、《いっこう聞き分けられぬささやき声か、ただわけもないざわめき》として、贈り届けられる。
とりあえず、今回はここまで…。