●自分がこれから感じること、経験することは、ほぼすべて、既にこの人たちによって先取り的に経験されてしまっているのだ、という感覚をはじめて感じたのは美大受験のための予備校に通っている時だった。
予備校の講師たちは皆、過去の美大受験生であり、さらには、講師として多くの過去の受験生をみている。さらに、予備校にいる、自分より年上のいわゆる多浪生は、技術的な意味でも精神的な意味でも、自分がこれから通るであろう道(成長や行き詰まりやその乗り越え)を既に通ってその先にいる。つまりそれらの経験は既に「ここ」にある。しかし、それは、ぼくにとってはまったく未知のもので、これから「新しく」やってくるものだ。
ぼくは彼らにとって「過去」であり、つまり彼らからぼくの状態は見えているのだけど、ぼくにとって彼らは「未来」であって、ぼくからは彼らの状態は未知のものである。逆に言えば、未来の自分は既に「ここ」に、彼らの中に分け持たれるという形で存在している。それによってぼくは、それまでとは違った感覚で時間というものを感じるようになった。
今から考えれば、それはぼくが子どもだったから、大人というものを過大評価していたわけで、別に彼らはぼくの未来というわけではなかったし、ぼくのことがそれ程よく「見えていた」わけでもなかったのだと思う。でも、その時に感じた時間の感覚、未来は既に先取り的に「ここ」にあり、それは、ぼくからは見えないが、その未来からはぼくが見えているという感覚は、今でも残っている。
そしてぼくは、歴史というものに、それに近い感じを感じている。歴史は過去にあるというよりむしろ未来にあって、ぼくからはそれはよく見えないが、向こうからはこちらが見えている、という感じ。