●『タイムトラベルの哲学』(青山拓央)を読み始めた。すばらしく面白い。というか、こういう本こそを読みたかった、という感じで、ぼくの今の関心に重なっていて、熱くなった。こういう本こそを読みたかったということは、こういうことこそをぼくは考えたかったのだということで、つまりは、こういう本こそを書きたかったということでもあり、しかしそれは既に書かれていた、ということでもある。だがそれは、先を越されたということではなく、過去に既に書かれていた本を読むことによって、こういうことを考えたかったのだということを知らされたということで、過去によって未来の欲望が告げ知らされた(知ることが出来た)が、しかしそれは既に他者の過去であったから(他者の導きによって)知れたのだ、という感じだ。
(ここからまず思い出されるのが、アインシュタインベルクソンの論争――というか、アインシュタインベルクソンのことなど問題にしていなかっただろうから、ベルクソンアインシュタインに文句をつけただけ、ということになるが――のことだろう。相対性理論のような時空の考え方だと、この世界のなかにベルクソン的な持続が入り込む余地がなくなってしまう。それはまた、現代物理学が(この宇宙の時空の構造から)、人の意識の流れを排除しながらも、実は人の意識の流れに依存してしまっている、ということでもある。物理学のなかには、時間の「流れ」と「向き」とが書き込まれていなくて、それは観測者である人の「意識の流れ」に依存する。故に物理学者のなかには「時間は実在しない」「時間は幻である」と主張する人もいる。では、そのような「幻」がなぜ――少なくとも「人」にとってはこんなにも重要なものとして――発生してしまうのかということが問題になる。)