●『新しい左翼入門』(松尾匡)、面白かった。
この本には、日本の左翼的な運動が、起こり、分裂し、挫折する、という過程が、初期の幸徳秋水から戦後の共産党社会党の対立まで、歴史を通じて、何度も繰り返し起こっていることが書かれている。起こった運動はやがて、(1)エリート主義的なトップダウン派、と、(2)抑圧された者と共にあるボトムアップ派、という二つの路線に分裂し、そして、どちらにもあるそれぞれの固有の欠点が露呈して挫折する、ということが、延々と繰り返されている、と。あとがきによると、この本の最初の動機は、若い世代が、過去に繰り返し行われた「愚かなこと」をまったく知らずに運動に参加することに危惧を感じたことからはじまっているということだ。「世の中を変えたい人」のための本、というより、「世の中を変えようという人に騙されない」ための本だ、と。
(1)の欠点は、もともと抑圧された個のため運動だったはずなのに、現場の事情から遊離した、上から目線の理念の押しつけになり、かえって個を抑圧することになってしまうこと。これはまさに、実現された社会主義国家(ソ連や中国)が陥った罠でもある。そして(2)の欠点は、独善的・閉鎖的な小ボスを生み出してしまいがちで、さらに、普遍的な理念をもてず、小ボスを頂く民衆の感情が(排他的で)極端な方向に走ってしまったときに歯止めがきかなくなること。この点については、次の記述がとても強く心に残る。
《世界最強のアメリカ軍を、圧倒的に貧しいベトナムが打ち負かしたとき、人々はそこに輝かしい将来を夢見たかもしれません。しかし、勝利したベトナムからは、すぐさま多くの人がボードピープルとして逃げ出し、腐敗した官僚主義の実態が伝わってきます。さらにはベトナム共産党ラオスを支配し、カンボジアにも攻め込みました。
それで幻滅した人の中には、そのベトナムの侵攻と戦うカンボジアのボル・ポト政権に希望を託した人も多かったのですが、実は彼らは、おびただしい自国民を大虐殺していたことが明らかになりました。
そこでさらに幻滅した人の中には、イスラエルの占領と闘うパレスチナ解放機構に期待を寄せる人もいたでしょう。しかし、内ゲバや権力争いが相次ぎ、後年、自治政府を勝ち取ったあとは、腐敗と官僚化を進めていきます。それに反発したハマスは、しばしば一般民衆をも巻き込んだ自爆テロを進め、イスラエルのスパイのかどで何人ものパレスチナ人を殺しています。
あるいは、……》
と、まだこの調子でつづく。ボトムアップ派的な「抵抗」は、閉鎖的、排他的小ボスによる独断化、カルト化という最悪の道への歯止めがきかない。この本で、左翼的な運動のほとんど唯一の成功例のようにして描かれているボトムアップ系の賀川豊彦でさえ、(強力な西欧の抑圧への「抵抗」という意味で)日本が戦争へと進む流れを肯定的に考えていた。この時、それが同時にアジアへの「抑圧」へと繋がるものであることが考慮されなくなる、と。
●この二つの系列は出自が異なるとされる。まず、自由、平等、博愛という個人主義を理念として封建支配を倒したブルジョア革命があって、その次の段階としてプロレタリア革命を目指すという、西欧の左翼が、トップダウン派の源流にはある、と。マルクスによれば、(市場経済こそが自立した個人を育てるのだから)まず資本主義化するブルジョア革命という段階があって、それを超克する労働者による革命はその次の段階ということになる。目標としての革命へと至る過程が描かれている。一方、ボトムアップ派の源流は、西欧の植民地支配に対する抵抗運動としてアジア、アフリカ、中南米などで起こったもので、「民族独立」という形をとり、目標は「支配秩序の打破」である。支配者たちが資本主義であるから、結果として反資本主義となる。
だが、日本においては、それはどちらも微妙に当てはまらない、と。自由、平等、博愛といっても、どこか借りてきたようでなじまないし、ヨーロッパで勉強してきたインテリが、遅れた大衆に教えを垂れるというような感じになってしまう。そもそもそれが、日本において抑圧されている者たちの現状にあっているかどうか分からない。しかしもう一方で、日本はまがりなりにも近代国家となり、植民地支配も逃れている。しかも、天皇を頂く支配階層と民衆とは「同じ民族」で、伝統的な道徳感情は支配階層を肯定するものだから、それをもって「抵抗」につなげることは難しい(民族派は、支配階層の肯定---右派となる)。むしろそれは、近隣アジアへの傲慢な優越意識につながってしまう。なので左翼は、トップダウン派もボトムアップ派も失敗を繰り返しつづけることになる。
マルクスは、まずブルジョア革命で資本主義化し、次の段階としてプロレタリア革命があるとする。それは、市場経済がなければ自立した個人が育たないからだ、と。この点に関して日本の左翼の二つの系列に意見の相違があったと書かれている。トップダウン派は、日本には未だ十分に資本主義的ではないから、まず近代化の過程としてブルジョア革命が必要だとする。一方、ボトムアップ派は、日本もすでに十分資本主義的であるから、直接プロレタリア革命が目指されるべきだとする。
この点に関しておそらく著者は前者の立場に近いと思われる。著者は「左翼」であるはずだが、この本には資本主義の「良いところ」がいろいろ書かれている。
何が上手くゆくのかということは、いかに事前に熟慮を重ねたとしても、実際にやってみなければ分からない。資本主義の良いところは、いろいろな人が、いろいろな「よいと思うこと」を、それぞれ自分の責任においてはじめるところだ、と。でもそれが上手くゆくことは希だ。ベンチャー企業が上手くゆく確率は千に三つだと言われる。逆に言えば、千の異なる試みが試みられなければ、上手くゆく三つが生まれない。資本主義において、試みは自分の責任で行われるから、失敗した試みは、自分の傷がそれほど大きくならないうちに停止される。そして、上手くいった試みだけが持続されて、大きくなる。
一方、共産主義的な国家では、少数のエリート官僚によって「必ず上手くゆく(はずの)計画」がたてられ、そのリスクを国民全体が負うことになる。つまりそこでは、多様な実験を行うことが困難であり、上手くいかなかった時のリスクが大きくなりすぎる(必ずしも同意したわけではないエリートの失敗を国民すべてが負うことになる)。そして、いったんはじまってしまった計画は、どうも上手くいかなそうだということになっても、なかなか引っ込めることができなくなって、しばしば暴走する。
西欧を参照基準にした「自立した個人」と言われても、それは日本にはなじまないという声に対して、著者は次のように書く。《しかしどこであれ、封建的な縛りをだんだんと崩して市場経済が広がっていく時、それに巻き込まれた人は否応なく個人として自立せざるを得ません。》そして、日本にも、江戸時代には石田梅岩近江商人による「商人道」という自立した個の思想が町人たちに大きな影響をもっていたことが語られる。しかしそれが、明治以降「武士道」によって塗りつぶされてしまった、と。
●この本の一番面白いところは、以下のような「商人道」とでも言うべきものが説かれているところだと思う。
《他人が今抱いている理論や価値観が、自分にとって受け入れられないものだ。---そんな経験をしたら、それはライバル会社の製品を使っている潜在的顧客を目にしたのだと思いましょう。「我が社の製品を使ったほうが絶対満足するはずなのに」と思うことは、別に、その人を見下しているわけでも、自分が高見に立っているわけでもありませんね。ただ、相手の選択を尊重しつつ、自分の商品を自発的に受け入れてくれるよう、地道に働きかけるだけです。
それで受け入れられなかったならば、それは、そもそも自分の商品がやっぱり相手のニーズに合っていなかったのか、そうでないならば売り込み方がまずかったかのどちらかです。》
《極右的な政治家が選挙で圧勝したりすると、ついつい有権者は愚かだとかケシカランとか思いがちですが、決してそんなことはないのです。人々に受け入れられているからといって正しいわけではありませんが、人々に受け入れられていないものは中身自身か売り方が現時点では劣っているのです。天動説より地動説の方が本質的には正しいですが、できたばかりの粗野な地動説で航海したら命にかかわるかもしれません。そんなときには齟齬があっても天動説を人々が選ぶのは防ぐわけにはいかないのです。》
●左翼的な運動が、トップダウンでもボトムアップでも上手くいかないとしたら、どうすればいいのか。この本で示されるのは、まず、運動や事業が立ち上がる時には、トップダウン的なリーダーが必要だということ。ヴィジョンを示し、自分の責任において、リスクを負って何かを立ち上げようとする人と、その人への信頼によって集まる人たちによって、何かが立ち上げられる。それが幸運にも「上手くゆく」ものであった場合、しだいに事業は拡張し、安定したものになってゆくだろう。だがその時にはトップダウン的なリーダーはフェイドアウトして、ボトムアップ的な組織に切り替える必要がある、と。しかしそこでまた、ボトムアップ的なものの欠点がみえはじめた時、それを正すような新たなトップダウン的リーダーが求められる、と。
ここで、事業が安定し、ボトムアップ的な組織に転換したとしても、それが視野の狭さや身内的な排他性という欠点を生じさせてしまわないようにするための自立した個人のありようとして、「複数のアイデンティティーをもつ個人」が提案されている。つまり、一人一人がそれぞれ異なる、複数の、様々な事業、取り組み、文化、趣味、学術などのサークルに同時に所属している人たちの集団であることが望ましい、ということになる。これはぼくが普段考えていることとも近い。
《つまり、他人を配慮しない孤立人と、周りの目を気にして埋没する人との中間に中庸を求めるのではないのです。A集団の中においてB集団、C集団……のことを配慮して振る舞い、B集団の中においてA集団、C集団……のことを配慮して振る舞い……というふうに、どんな集団の中でも陰ひなたなく、自分の属する異質なすべての集団の人間関係を気にして振る舞えば、いかなる集団にも埋没しない、強烈に自立した個人になるのです。》