曳舟まで永瀬恭一さんの展示(「もぎとれ 青い木の実を」巡回展)を観に行った。スカイツリーをはじめて見た。
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20150420#
●画集をモチーフに絵を描くということについて、とてもムズムズする感じがある。(1)そういう欲望はすごくよくわかる。(2)しかし、そのような欲望を臆面もなく晒すのは恥ずかしい(これに関して二通りの評価がありえる、恥ずかしがらずに堂々とやっているところがすごい、と、いや、それはいかがなものか、と)。そして、(3)オリジナルを観て模写するのでもなく、図版を使って作品の分析をするのでもなく、図版をモチーフにするという行為の微妙な感じ、がある。
(3)に関して。【1】絵を描く人は誰でも、誰かが描いた他の絵の影響のもとに絵を描きはじめる。【2】絵画というのは基本的に一点物であり、オリジナルの作品の唯一性が重要視される(オリジナルのみが「作品」である)。【3】しかし、多くの絵を描く人は、まず最初に印刷物(画集)を通じて絵に出会い、画集を通じて「絵を観ること」を学ぶ。
絵本やポスターなどと違って、画集はそれ自体が作品なのではなく、作品の不十分な再現としてある。展覧会ですばらしい作品と出会ったとして、図録に掲載されたその絵の複製のなかに、自分が観た「何か」がまったく再現されていないことに落胆するという経験を、誰もが繰り返しもち、その度に絵画の唯一性を確認するのだが、それでも我々は、画集やポストカードを手元に置き、それを繰り返し参照する。
親がたまたま裕福で趣味をもつ人で、家に質の高い絵画が何点もかざってあったとか、たまたまルーブル美術館の近くで育ったとか、そのような特別に恵まれた育ちをした人以外、絵を描く人の多くはいわば「まがいもの」である複製物によって絵画と出会い、「まがいもの」のなかで絵を描く人としての自分を育てて行く。この「まがいもの」は、我々をオリジナルへとつなぎ、そこへと導いてくれる通路であり、媒介であり、その意味では不可欠で貴重なものだが、同時にノイズでもある。
(その意味で、絵画は半分以上は複製芸術だとも言える。あるいは、複製がオリジナルを媒介し、逆に、オリジナルが複製を媒介するという、オリジナルと複製が織りなす反転的な循環が「絵画」であるとも言える。)
画集は、絵画としてはまがいものであっても、「画集」としてのフェティッシュを喚起するものでもある。絵を描く人のアトリエや本棚には、大きくて厚くて重たい画集がずらっと並んでいることだろう。それらの多くは新刊書として購入されたものではなく、古本屋で偶然みつけたとか、先輩や友人から譲り受けたりしたもので、様々な異なる来歴を経て「ここ」に至ったものであろう。そこにある画集のいくつかは、何十年も前から、絵を描きはじめた頃からずっとありつづけるものであろう。
絵を描く人にとって画集は、絵を描く環境の一部であり、絵を描く動機の一部であり、絵を描く実践的行為のための道具の一つでもある。それは例えば、学生時代からずっと使っているキャンバス張り機や木槌などと同様なもので、絵が生産される(絵を産出する)ある親密な圏内にあるものと言えるだろう。
だから、画集をモチーフにすることは、われわれの絵を描く環境の「まがいもの」性を自覚的に提示することであるのと同時に、きわめてプライベートで閉じられた親密な行為(たとえば、自分の使っている絵筆やパレットを描くとか、住んでいる家や家族を描くといったことに近い)でもあると思う。それを両方あわせて、われわれが絵を描く環境や欲望というものを、非常に無防備に出してしまう感じがある。
(そのような意味で、多くの作品がボナールの複製をモチーフにしているということは納得できる感じがする。)
ムズムズするというのはそういう感じのことで、絵を描く欲望にまつわるある種の生々しい感じが露呈しているということで、それについて、絵を描く人としてのぼくはそれをおもしろく(ニヤニヤしながら)観るのだけど、反面、いや、これはマニアックな方向に行き過ぎているのではないかという感じもある。
ただ、展示会場で、永瀬さんが描いた絵画が展示されている前で、そのモチーフとなった「(複製された)原画の図像」を、画集をぱらぱらめくりながら探し、あ、これだ、なるほど、と、比べて観たりする経験はちょっと他にはない感じでおもしろいかもしれないと思った。
(この作品はボナールのこの絵を参照した、という風に明示されているわけではないので、会場に置かれている画集から勝手に探すことになる。ぼくが行った時には永瀬さんがいたので本人に聞いたりもしたけど。)
絵画という意味では永瀬さんの作品がオリジナルだけど、その参照元という意味では、画集にある(複製された)絵がオリジナルと言えて、このような循環によって、絵を観ながら画集を観る、画集を観ながら絵を観る、という行為が、作品が展示されているその会場(その場)で可能になるというのはおもしろかった。それはたんに、参照元の作品と比較するというだけでなく、永瀬さんの作品とは関係なくボナールの画集に見入ってしまったり、しばらくしてまた永瀬さんの作品に(参照元との比較とは関係なく)戻ってきたりする感じ。目の前にある作品と対峙する、というだけではない、様々な別のところへ飛んで行ったり、戻ってきたりできるような、絵を観るためのこのような空間-時間のありかたはおもしろいと思った。