●『ユリ熊嵐』第十一話。
●銀子が一方的に「紅羽に見つけてもらった」ということではなく、紅羽も銀子に助けられたという対等な関係になっていた。紅羽もそもそも孤独な子供であり、「友達の扉」のなかにふらふらと誘い込まれる、いわば神隠し体質であった。だから、紅羽もまた、もし銀子に出会わなかったら「(この世に)帰ってくる」ことができなかったかもしれない。
●信仰の問題。紅羽と出会った銀子は、紅羽の姿のなかにクマリア様を見る。クマリアへの信仰は、孤独な銀子をテロリストに仕立て上げる危険なものでもある。しかし、その危険なクマリアへの信仰がなければ、銀子と紅羽との出会いはなかったかもしれない。あるいは、銀子と紅羽との関係はもっと弱いものであったかもしれない。
信仰(≒正義)と空気とは対立する。一方に危険な信仰があり、もう一方に空気への追従がある。しかし、信仰も空気も、どちらにしても人(熊)を同じ様な行為へと導く(正義も空気も、仲間外れを排除し敵を殺戮する)。だが、危険な信仰からも空気への追従からもはみ出すものとしての強い「スキ」は、信仰を通じてのみ可能となるようだ。
(「ウテナ」においても、王子様の両犠牲が描かれるが、しかし、その両犠牲を超える力もまた、王子様との約束=トラウマによって得られるのだった。)
信仰と空気と、もう一つ欲望がある。蜜子は欲望をあらわすキャラクターだ。蜜子は、空気に追従するのではなく、自分の目的=欲望(純花と紅羽を食べる)を達成するために空気を利用していた。だから彼女は空気や信仰の外にいて、その呪縛から自由だと言える。他者からの承認を必要としない「自分の欲望」を発見し、それを肯定的に受け入れた者は自律しており、だからとても強い。同じ欲望グマでも、蜜子からの承認を望んでいたこのみは、死後、人間に利用されて殺熊マシーンとなりはてるが、蜜子は、死んだ後もなお自律した魂であり、銀子につきまとって、銀子の最後の越えるべき壁(試練)となる。欲望を肯定する蜜子は、正義や信仰を超克する者として、銀子やるるに最も近いといえる。
信仰と空気と欲望は、おそらく、正義と共同体と功利主義に対応する。それらは、行動の原理であり根拠となる。行動の原理、あるいは社会構築の原理としての、三つの異なる根拠の争いがある。銀子やるるや純花が到達しようとする「スキ」とは、その三つのどれとも異なる、それらを超克しようとする別の根拠であり、それは必然的に脱社会的(個別的・一回的)なものとなるだろう。
ステンドグラスのクマリア様は輪郭線だけで中味は真っ白だった。絵本を描いた紅羽の母はもういない。既にクマリア様は存在しない、砕け散って世界に遍在しているとライフセクシーは言う。それは、流星群となって地球へ降り注いだ惑星クマリアでもあり、蝶子によって切り刻まれた紅羽の母の絵本でもある。超越性(第三者の審級)は十全なものとしてはあり得ず、既に粉々に砕けたその破片としてあり、それだけでは意味をもたない痕跡のようなものでしかない。
(正しい神がいつも見ている、というのではなく、かつて誰かに「一度だけ見つけてもらった」というような意味でのかすかな痕跡。)
(彼女たちを見ているのは神ではなくジャッジメンたちであり、彼女たちを裁くのは正義ではなく法則だろう。)
十全には機能しない、空白であり断片である信仰の痕跡が、具体的な他者への指向を現状の超出へと結びつけるのではないか。他者からの承認をアイデンティティーとするのではなく、信仰(≒正義)への奉仕(それは、奉仕することによって、そこからの正統な承認を受けるということだ)をアイデンティティーにするのでもなく、他者への承認(スキ)をアイデンティティーとするということではないか。それは、アイデンティティーの能動的放棄をアイデンティティーとするということではないか(空気や信仰への追従は、承認を受けるための、アイデンティティーの受動的放棄といえる)。
(1)信仰と空気→アイデンティティーの受動的放棄、(2)欲望→自律的アイデンティティーの肯定、(3)スキ→アイデンティティーの能動的放棄、といったところだろうか。(1)は、承認のための放棄であり、常に承認を確認しつづけることで縛られるが、(3)は、既に「かつて見つけてもらった」という意味で承認は先取り的になされているから、他者に開かれつつも拘束されない。
(蜜子を振り切った)銀子は、自分が映った鏡を粉々に砕いて紅羽のいる屋上へ到達する。撃たれたるるの蜜壷は粉々に砕ける(蜜子を振り切った銀子と同様、るるも紅羽への嫉妬を振り切ったからこそ、自らの大切なものを粉々にすることができた)。クマリアが砕けたこの物語の世界では、自分や自分の大切な物が粉々に砕けることによって「スキ」に到達できると言えるのではないか。切り刻まれた絵本の断片は、るるによって紅羽のものとへ返される。切り刻まれることによって、(これまでその結末を信じることができなかった)絵本はようやく真に紅羽にとっての(スキのための砕けた)信仰の根拠となり得るのではないか。
●おそらく、物語の重要な謎はほぼ開示されたのではないか。あとは、「では、紅羽はどうするのか」ということが問題なのではないか。