●『ユリ熊嵐』。二話目にしてはやくも予想外の超展開。もし、名前に「百合」のつくキャラがみんな熊なのだとすると、「箱仲ユリーカ」はどうなるのか。とはいえ、「百合=熊」という分かり易い「読ませ方」こそがミスリードを誘うエサかもしれないけど。
●百合のつく名前に囲まれた主人公の名は「椿輝紅羽(つばきくれは)」なのだけど、百合椿という椿があるらしい。
http://www.nagominoniwa.net/2007/070224.html
●この作品は、あきらかに意図的に、観る者を混乱させることで過剰な深読みをするように誘っているし、こちらとしても、それを承知した上で、それに乗っかって様々な謎やひっかけや仄めかしに反応して、ああでもない、こうでもないと考えたりするのが楽しいのだし(例えば、一話で主人公は的確な射撃の腕を持っていて、木彫りの熊を確実に打ち抜いていたのに、何故、二話になって急にライフルの弾が熊には当たらなくなったのか、ということが気になり、しかしこれが明らかに「釣り」であるとは明白なのだけど、それでもそれについていろいろ考えるのが楽しい)、そしてそれは、様々に散らされた暗号が、たんなるひっかけや仄めかしに終わらない、構築性というか論理性の上で成り立っているはずだという信頼を、作品自体のイメージの強さが感じさせるからだと思う。ここで論理性とは、例えばミステリで成り立つような論理性とは異なるものなのだが。
しかし、それだけでなく、この作品にはある明快さ、分かり易さもあると思う。この作品はつまり、愛とドロドロの欲望と策略の話であり、文字通り肉食系的なえげつないエロ話であり、それが同調圧力の強い集団のなかでどう発現するか、という話である。そしてそれが宮沢賢治「なめとこ山の熊」に通じる「捕食(自分が生きるために相手を殺す)と倫理」という主題に、おそらく繋がってくるだろうと思われる。一方で、暗号解読的な、謎や深読みへの誘いと意味の乱反射や予想を超えた突飛な展開があるが、もう一方で、この作品が基本的に「何を問題にしているのか」というキートーンは最初から明確に示されている。イメージの明確さが強さになっていると思う。
(捕食=補色で、この作品の画面の多くは、赤――というよりピンク――と緑の対立で形作られている。例えば、銀子は赤、るるは緑、蜜子のネクタイと眼は赤、このみのネクタイと眼は緑、学校の建物は赤、周囲は緑、紅羽の部屋も、赤と緑に色分けされ、二分されていて、紅羽はその中間であるベッドの上に一人でうずくまっている、とか。ただ、椿輝紅羽は、名前に「椿」と「紅」という赤い要素を二つも含みながら、ビジュアルイメージは赤でも緑でもなく、青なのだった。制服が青だからなのだが、その青に対して目立った挿し色がない。地にあるのは百合の白だけど。
椿の花だけでなく、椿という植物をイメージするなら、その印象は「赤と緑の対比の強さ」になるのだが。
赤と緑の対立のなかに青が入って三項になるという構図は、銀子、るる、紅羽の三者関係のほかに、裁判を行う三人の男、ライフ・クール――青――、ライフ・ビューティー――緑――、ライフ・セクシー――赤――においてもみられる。)
(「ピングドラム」では、途中で、「こどもブロイラー」とか「メリーさんの羊」みたいな、思わせぶりな比喩が作品を弱くしてしまっているという側面もあったと思うのだけど、この作品に関しては――まあ、まだ二話分しかないけど――そのような感じは今のところなくて、きわめて具体性のある、明快で強いイメージの連鎖によって出来ていると思う。)