●今までになかった観測装置によって得られるデータ、そのデータの新たな解析技法、それらを利用した道具などは、世界をそれ以前までとはまったく違ったものに変化させ、それに対峙する「わたし」のありようも変化させる。
『データの見えざる手』には、次のようなことが書いてあった。
《温度計が登場した初期の実験では、当時の科学者たちは、温度計が何を計測しているのかがわからなかった(トーマス・クーン『本質的緊張』)。「熱さ」に関係していることはあきらかだった。しかし、人々の感覚による「本来の正しい熱さ」とは著しく異なっていた。温度計の値が同じものに対して、人はまったく異なる「熱さ」を感じることがたびたびあった。したがって、温度計は、正しい熱さとは異なる。何か複雑でわかりにくいことを捉えているように感じられた。
しかし、今われわれは知っている。「複雑でわかりにくい」のは、我々の感覚の方だ。温度計は、ものを構成する原子の運動の激しさを素朴に表すものである。》
このような出来事が起こったのは17世紀のことだ。
我々は、生まれた時から温度計のある世界に住んでいて、温度計を当然のように「物差し(基準)」として感覚を形成してきているから、主観的温度と温度計が示す温度とが完全には一致しないとしても、その違いを適当に吸収できる。しかし、誰も温度計などというものを知らず、客観的温度の基準というものをもたないで感覚を形成していた人々にとって、熱さや冷たさという感覚として捉えられるものと、温度計の示す数値(原子の運動の激しさを示すもの)とは、まだ対応づけられていなかった。
(逆に言えば、今の我々には、温度計がなかった頃に人々が感じていた「熱さ」や「冷たさ」を想像することは難しい。)
つまりそれは、温度計という媒介によってはじめて、熱さや冷たさという感覚と、原子の運動の激しさとが「結びつけられた(比較・交換可能になった)」のだと言える。
温度計があろうがなかろうが、水はずっと百度で沸騰していたのだとも言えるが(しかしそう言えるのは、温度計の出現によって、過去が読み替えられるからだ)、でも、温度計がなければ、あっちで沸騰している水と、こっちで沸騰している水とを(「感覚」以外では)比べられない。「わたし」には、こちらの沸騰の方があちらより明らかに「熱い」と感じられるかもしれない。そしてそれは「間違い」ではない。
だが、社会のなかへの温度計(という媒介)の普及によって、わたしのこの判断は(「感覚」ではなく、「感覚による判断」は)「間違え」だと断じられることになる。現代に生きる「わたし」は、自分の間違いをすんなりと受け入れるだろう。我々はすでに、圧倒的に人間を越える高精度のセンサーや、それを条件とするテクノロジーを生の環境の前提とし、そのなかで生きているのだから。しかし、17世紀の人々は、自分の感覚と折り合いのつかない、その外にある基準(温度計)の侵入(新たな基準の押しつけ)を、どのように感じ、受けとめたのだろうか。
(そして、17世紀の「温度計」と同等のことが、例えば「ビッグデータ」という形で、現在われわれの感覚や常識、思考に突きつけられている、と。それは「実感」どころか、因果関係の組み立て方を変える。)
おそらく17世紀の人がこれを受け入れなければならなかった(自らの「感覚」や「常識」の敗北を認めなければならなかった)のは、物理学の体系の厳密さと、それによって得られる予測の正確さが、感覚や常識による予測をはるかに上回るものだったからだろう。あるいは、それによって新たなものとして開かれる世界の変化や得られる力に魅了されたからかもしれない。
しかしその時、それまでに生きられていた感覚、その感覚によって形成されていた身体、その身体との関係で開かれていた世界とその記憶、つまり「そのような世界と不可分なこのわたし」との間に、大きな齟齬や摩擦が生じることになる。もし、即座にすべての人が(あるいは、「わたし」のなかのすべて〈わたし〉が)「新しいわたし」に生まれ変われるのであれば、それでも問題はないかもしれない。だけど、そうはいかない。
●いずれにしろ、「わたし」が否応なく変質せざるを得ないとして、一方で、崩れ去って消える「わたし」があり、もう一方で、新たに形成されつつある「わたし」があるとして、そのどちらでもない、見放されつつも残留する「わたし」というものが考えられないだろうか。この、古いわたしでも新しいわたしでもない、双方への引き裂かれによって生まれる、見放されつつも残留する「わたし」というところに、ある種のノスタルジーというものの生まれる根拠があると考えられないだろうか。ぼくはどうも、そういうところが気になるようなのだ。
だからそれは常に「遅れたもの」であり、しかしそれは、「古いもの」そのものというわけでもない、「その都度新しい」かつ「遅れたもの」なのではないか。
そんな中途半端な「わたし」に何の意味があるのかと問われれば、意味などないのかもしれないが、しかし、意味があろうがなかろうが、それは残ってしまい、残る限りは、何かしらの作用が生じる。