●五日の日記に書いた「サイエンスZERO」の再放送が、明日(十日)の昼の十二時半からある。繰り返しになるけど、ぼくが面白いと思ったのは、超能力という(胡散臭くも魅力的な)表象が、スプーン曲げや透視のような、物を変形させるとか見えないはずのものが見えるといった分かり易い(感覚可能な)形でではなく、乱数発生器や二重スリット実験の「確率の分布」に偏りを生じさせるという、人間の感覚では分からない、データを得て、それを解析し加工することではじめて「偏り」と分かる形になるものとして示されているところだ。
そのままでは形にならないもの(データ)から、一定の手続きで計算することで「感覚可能な形」を取り出す。データと、手続き(計算)と、それによって得られる結果(形)。これらの「関係」を、人間の感覚は(あるいは悟性も)リアルに追うことが難しい。例えば、よく言われる例だけど(量子論と比べるとぐっと単純な例だけど)、多量のデータの解析から生まれたもので、その年に出来たワインの出来を、簡単ないくつかの変数(降雨量や平均気温)を入力することで、専門家の目利きによる予想よりずっと高い精度で予測できる簡単な方程式があるという。ここでも、感覚可能なもの(専門家の舌)より、データ→計算→結果の方が強い説得力をもつという話になっている。
(以下は、イアン・エコーズ『その数学が戦略を決める』に載っていたワインの質を予測する方程式。
ワインの質=12.145+0.00117×冬の降雨+0.0614×育成期平均気温−0.00386×収穫期降雨)
ただ、この方程式自体は何か「真理」のようなものを意味したり表現しているわけではない。この式が表現しているのは、いくつかの指標――気温や降雨量――が、どの程度の比率でワインの出来を左右するのか、ということだ。もっと言えば、何故そんなに高い精度で当たるのかは分からないけど、データを入れて出てきた結果が実際に当たるのだから、それが使える限りはそれを使う、というようなものだろう。いうことはつまり、「方法」を示してくれるわけでもない。何故それらが重要な指標となり得ているのか、どういう仕方でそれらはワインの出来に干渉しているのか等々は、何も表現していないから、どうすればいいワインがつくれるのかという問いには答えない。
そこにあるのは、データと結果との対応関係で、いわばその間にある人間の行為、ブドウやワインに対する愛情や労働の質のようなもの(言い換えれば、ブドウに対する人間の関わり方の問題)を表現しているとは言えず、傍観者的立ち位置であり、結局、ワインづくりではなく、ワインを使った効率的な投機の役に立つだけということになってしまって、そのことがおそらく、ワイン好きの人の神経を逆なでする。とはいえ、それは少なくとも「人間の感覚」を間に通すよりずっと精密に予測を立ててしまう。ならばそれを、ワインづくりにもフィードバックするやり方もあるのかもしれない。
あるいは、我々が選挙に関心をもち、投票と言う行為を行うのは、それがいかに微力であろうと、一票を投じることによって結果に対して何かしらの影響を与えることが出来るという思いがあるからだろう。しかし、開票がはじまると即座に出る出口調査に基づく「当選確実」は、自分の投票行為に対する「意味」の感覚を失わせる。例えば、自分は一度も出口調査など受けたことはなく、それなのに、出口調査は結果をとても正確に予測するとすれば、自分が投票することに何の意味があるというのか。少なくとも大きな選挙区においては、重要なのは、一群の有権者という「塊」のとる投票の「偏りの分布」であって、そのような「偏り」が既に形成されているとすれば(それを知るのに十分なサンプル数が得られるならば)、投票するもしないも大した違いはない、という感覚をもつのは自然なのではないか。
ここでも、具体的な行為(自分が誰を支持するか、あるいはそれを支える理念)よりも、「偏りの分布」の方がリアルなものとなっている。そしてこの時に、「わたし」には、この、山のように存在し、雪崩のように流動的でもある「偏りの分布」に対する働きかけの仕方が分からない。近代的な、主体、責任、運動などが、社会との関係において機能するなどとは信じられなくなる。
上の二つの例はちょっと単純すぎるかもしれないけど、データを解析することで、感覚やカンや経験によっては決して知ることのできないものから、ある「形」を取り出すことが出来る。だが、それによって得られたものを人間の感覚が「納得」するのは、そう簡単ではない。しかし、一度データ解析による大きな効果を知ってしまえば後戻りは出来なくて、その結果のフィードバックは、我々の「感覚」に新たなものを付け加え、感覚やカンや経験の再組織化を促し、それを変えてゆくことに、おそらくなるだろう。そうであるとすれば、眼で見たり手で触れたりできる物と同じかそれ以上に、確率や統計の手触りや色彩を感じるようになるのかもしれない。それは、人間の存在のあり方まで、大きく変えてしまうのかもしれないと思う。
●今月末に、青土社から西川アサキさんの新しい本が出るのだけど、上記との関連でそれと共に気になるのは、次の「現代思想」の特集が「ビッグデータ統計学の時代(仮)」となっていることだ。
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