●お知らせ。明日、五月九日(金)付けの東京新聞夕刊に、損保ジャパン東郷青児美術館でやっている「オランダ・ハーグ派」展についてのレビューが掲載されます。
今、いくつかとても重要な展覧会が開催されているなか、何故、他ではなくこの展覧会について書くのか、ということですが、ぶっちゃけ、書きたいと思ったいくつかの展覧会について既に他の執筆者が書くことが決まっていたという事情もありますが、絵画マニアとしては、ハーグ派を忘れちゃいけない的な気持ちも強くあります。ハーグ派は、印象派とほぼ同世代の、オランダのハーグという町に集った一群の画家たちを指します。それは、突出した作家による仕事というより、オランダ絵画であり、ハーグ派であるという、ある文化的、地域的集団性というか、紋切り型と言ってもいい一つの匿名的様式による作品群なのですが、そこには確実に「絵画」というものの核心の一つが宿っているように、ぼくには思われます。
それを簡単に言えば、光が降ってくる空があって、それを受け止め反射させる地面(水面)があって、その間のひろがりには空気や湿気がある、というシンプルなことで、それだけといえばそれだけなのですが、しかし絵画という形式は確実にその感じをいきいきと捉えることが出来る、ということを示している作品群だと思います。すごく地味だけど、いいです(ただ、もっとたくさんの風景画が観たかった、とは思う)。
●今日のことではないけど、思い出したので書いておく。世田谷美術館桑原甲子雄展で、満州を撮った写真が少しだけ展示してあって、ほとんど満州の日本人を撮っているのだけど、確か二枚だけ向こうの人を撮っている写真があって、そのうちの一枚に写っていた、二人並んだ瓜のようなお爺さんの「顔」を見た時、ふいに、吉岡実の「苦力」という詩の一節が思い出され、今までいまひとつピンときていなかったこの詩が、はじめてありありとイメージできて、腑に落ちたというか、ようやく読み方が分かったように感じられた。
支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高陵の地形を
排泄しながらのり越える≫
支那の男は人馬一体の汗をふく
はげしく見開かれた馬の眼を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた棺
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む
馬は住みついて離れぬ主人のために走りつづけ
死にかかって跳躍を試みる≫(吉岡実「苦力」)