●昨日書いた日記では「わたし」という形式が、ノードの連続性によって定義されている感じになっている。あるいは、遡行可能性と言う感じか。例えば、生まれたばかりの「わたし」と四十代も後半になった「わたし」とではまったく違うけど、四十代後半の「わたし」(のリンクの接続/切断の履歴)を過去へと遡ってゆくと、ノード(点)が途切れることなく赤ちゃんの「わたし」にまで辿り着く。だからどんなに中味が違っても、内的な記憶が途切れていたとしても、どちらも「わたし」なのだというのが、「わたしという形式」であるかのようになっている。この場合、遡ってゆく経路の間に小さな断絶が一度でもあったらダメなのだ。
だが、例えば、SFに出てくるような、別の場所へと物質を瞬間的に転送するような装置を考えてみると、場所Aの「わたし」はそこで完全に消えてしまって、場所Bに、消えた「わたし」とまったく見分けのつかない「わたし」があらわれるということになる。そこでは、連続性ではなく同一性(見分けがつかない)こそが「わたし」の根拠となる。場所Aで消えた「わたし」と場所Bに現れた「わたし」との間には、どのような方法でも(外的にだけでなく、内的にも)区別がつかないとすれば、それは同じ「わたし」なのだ、ということになる。しかしここには明らかに空間的なノードの断絶がある。ならば、場所Bで生まれた「わたし」は、その場所で(偽の記憶をもって)新たに生まれた、消えた「わたし」とは別の「わたし」なのではないか、となってしまう。
いや、ここまで極端な例を出さなくても、現代科学では、物質の最小単位は量子だということになっていて、量子というのはつまり離散的に存在するということでもあるから、物質の実在はデジタルであって連続的なものではない、とも言えてしまう。そもそも何かが連続的に持続したり、何かを連続的に遡行したりなど、物質的な次元では(量子レベルまで行けば)可能ではないのだ、と言えてしまうのかもしれない。連続的であるということは要するに、「マクロに見れば連続しているように見える」ということで、しかしそれだと、一体「誰に対して」見えればよいということなのか(それは誰に対する効果なのか)、という話になる。
(わたしに対して、「わたし」が連続であるように見えればよい、ということならば、「形式」ではなく「記憶」や「意識」の問題になってしまい、同一性の問題になる。)
(逆に、わたしに対して「わたし」が連続であるかのように見せる装置こそが「わたしという形式」ということになるのだろうか。「わたしという形式」が媒体となることよって、わたしに、「わたし」が連続しているかのように思わせることが出来、そのような「連続性の幻(あるいは夢)」が作動している限り、「わたし」が持続している――生きている――と、わたしは言うことが出来る、ということなのか。つまり、「わたし」に関する三つの違うレベルの働きが作動しているということなのか。)