●ぼくがつくっている作品の「線と線の関係」を記録する「型」について、例えば音を比喩として考えてみる。「ドミソ」と「ドミ♭ソ」とでは聴いた時の感覚が違う。これは三つの音の音程の関係(三つの音のうち、一つ目と二つ目の音の距離が長三度と短三度の違い)という形式的な違いであり、同時に、聴いた時の具体的な感覚として異なる。音が三つあって、真ん中の音がどちらかに半音ずれるという形式的操作によって、具体的な感覚の違いを生み出すことが出来る。
(リズムでも、たとえば四つの拍の距離関係によって異なる感覚が生じると言える。「感覚」は「間隔」によって生まれる。)
ここで「ドミソ」に「C」、「ドミ♭ソ」に「Cm」と名前をつけるとする。この時「C」は、音を聴いた時の具体的な感覚を指すと同時に、その感覚を引き起こすために必要な形式と操作をも指していることになる。「C」は、聴いた時の「あの感じ」を示すと同時に、「あの感じ」を実現するために必要なパーツ(素材)と組立方法を示している。「C」は、(1)抽象的形式(2)具体的感覚(3)感覚の組立(構築)法、を同時に示す。つまり、これら三つが分かちがたく結びついた一つのセットになっている。
形式と感覚と構築法をセットとして扱うことによる利点は、それを用いることでより複雑な「形式/感覚/構築」を探求することがしやすくなるということだろう。三つがセットになっているので、その内の一つ、たとえば「感覚」を追求することが、そのまま、別の二つ(形式や構築法)を追求することとダイレクトにつながっている。
(同時に、「感覚」という、捉えがたく移ろいやすいものを、形式や具体的構築法とのひも付けにより「ピンで留めておく」ことができるし、一つの「単位」のように扱うことができるし、それを「共有する」ことが出来るようになる。)
●だけど勿論、同じ「ドミソ」でも、楽器、演奏、リズム、曲のなかでの位置付け、あるいは三音それぞれの微妙な音程の揺れなどがあり得て、その都度違う個別の感覚があるとも言える。しかしそれでも「ドミソ」には「ドミソ」として「ドミ♭ソ」とは異なるキャラクターがあると言うことも出来る。あるいは、同じ「ドミソ」というキャラでも、その時々で無限に違う別の側面があり得ると言い換えることもできる。
●「キャラクター」という語を唐突に紛れ込ませたわけだが、ここでキャラクターは、「天然キャラ」とか「毒舌キャラ」とか「ツンデレ」とかいう意味ではない(それはキャラの「属性」で、「属性」とは、キャラを構築するために必要な素材の一つであり、同時に、キャラが存在する場でキャラがもつ関係性――機能的位置づけ――でもあるものだろう)。そうではなく、「戦場ヶ原ひたぎ」とか「一之瀬はじめ」とか「ミカサ・アッカーマン」とかいうような具体的なキャラクターを指す意味での「キャラクター」ということだ。キャラは、属性に還元できない「図」あるいは「形象」としての「構築された感覚」を表現している。ここで「キャラ≒構築された感覚」とは、そこから魂のようなものが感じられる一つの単位ということになろう。
「ドミソ」の魂と「ドミ♭ソ」の魂は別のものであろう。しかしその魂の違いは、構成要素である「ミ」と「ミ♭」の違いには還元されない。魂は、三つの音の距離−関係によって生じる。そして、キャラクター=人間とならないのは、一人の人間のなかには「ドミソ」の魂と「ドミ♭ソ」の魂が同居することが可能であると思われるからだ。一人の人間には、「一つのこのわたし」という形式があり、複数の魂という内容がある。一つの魂は複数の構成要素の関係から生じ、一人の人間は複数の魂の配置により生じる(それでは「一つのこのわたし」はどうして生じるのか、が謎なのだが)、ここで、キャラクター≒魂、作品(フレーム)≒人間というアナロジーが生じる。
「ドミソ」は、複数の構成要素の関係が生む一つの固有の感覚であるとする。しかし、「ドミソ」はそれ固有の感覚を持つだけでなく、コード進行のなかである機能をもつ。前に、キャラの「属性」は、素材であると同時にキャラ同士の関係における機能的位置付けでもあると書いた。例えば典型的な、起立→礼→着席のコード進行C→G→C(C→G7→C)において、「C」は、それ自身がもつ感覚だけでなく、時間の進行のなかである機能(役割)をもつ。
つまり、「C」は、(1)「ド」「ミ」「ソ」という三つの具体的構成要素をもち、(2)「ドミソ」という関係が生む固有の感覚をもち、(3)場、文脈、他との関係において、ある特定の機能をもつ。このうち(2)の、「C」という一つの単位のもつ「固有の感覚」を問題にする時、それを「キャラクター」と呼べるのではないか。
(こうなると、キャラクター≒魂≒クオリアみたいなことになるが。)
●つまり、キャラクターというものをコードネームのようなものとして捉えられないだろうか、ということだ。だとすればキャラは、(1)抽象的形式(2)具体的感覚(3)感覚の組立(構築)法、が、結びついてセットになったものということになる。
ただ、コードネームという比喩を使うと、それは既にあるもの、既に充分に体系化されたものというイメージになってしまう。そうではなく、未だ無いそれを創り出すこと、一つの単位として「(1)抽象的形式(2)具体的感覚(3)感覚の組立(構築)法が結びついてセットになったもの」を、とにかく様々なあり様(合成のされ方)をしたキャラクターを、たくさん創り出して、それを用いていろいろ組み合わせて場や文脈を創ってみるのが面白いのではないか、ということなのだが。
●この感じは幾分、11月6日の日記で引用した『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊)に書かれていた、《100日間の天気のデータ》を使って、さらに99回分の《ちょっと違ったかもしれない過去》のデータを創り、100の異なる世界のデータから「天気」の特徴量を抽出するという感じに近いようにも思われる。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20151106