●『虚構推理 鋼人七瀬』(城平京)を読んだ。一作しか読んでないで決めつけるのもなんなんだけど、昨日読んだ法条遥という人は、作家としてのモチーフというか感触というかトーンというかひっかかりのようなものがまずあって、それが元になり核になって、作品として加工されている感じだと思うのだけど、この作品は隅から隅までロジックで出来上がっている感じがする。個々の要素やイメージはすべて仮の(交換可能な)もので、それ自体はモチーフではなく、ロジック(の運用)そのものがモチーフであるような感じ。例えば、顔をつぶされて死んだアイドルが亡霊となって彷徨うというイメージは、九十年代以降のアニメやラノベではクリシェのようなありふれたイメージであるように思うのだけど、その次元での斬新さは求められていなくて、あえてそのクリシェとなったイメージを作品の中核にもってきているという感じがする。意識的に「よくある要素」を使っている感じがした。
この小説は、まずラノベ風のキャラクター小説のように読めるのだけど、ラノベそのものと言うより、このように書けばラノベになり、ラノベ的にキャラをたてるにはこのようなプロセスが必要で……、というような作法や段取りをあえて(わざわざ「愚直」にみえるように)使っているという距離感を感じる。「素」で書いているのではなく、分析的な学習の成果のようにキャラクター小説を意識的に組み立てているようにみえる。そしてもう一方では、この小説はミステリでもある。通常ラノベ的な世界では、超能力や幽霊や怪異といった非合理的な超常現象は当然の前提のように受け入れられている。それがなければキャラがたたないと言ってもいい。つまりそれがロジックにより分析的に導かれたラノベ的原理だ。一方、ミステリでは、一見非合理的であるようにみえる事件が合理的に説明付けられることが一応のルールとなるだろう。つまりあくまで合理が基底面としてある。そしてこの小説は、この二つの相容れないようにもみえるルールを合成し、どちらも成り立つようするにはどうすればいいかという問いの、一つの解として構築されているように感じられた。異なるロジックを共存させるロジックを組み上げる、というようなバイロジックの追究こそが、この小説のモチーフであるように思う(だから一つ一つの要素はありふれた、借り物でもよい)。起きてしまった非合理な事件を合理によって説明する(=ミステリ)というのではなく、もともとが非合理な世界というルールのなかで「起きつつある出来事」を、合理を用いて「ないことにする」という、この小説の独自なありよう(基本的に合理的な世界というルールのなかで魔法のようなものを使って奇跡を起こすという、よくある物語の逆向きでもある)は、異なるルールを共存させるための解の一つとして導き出されたのではないか。
具体的に言えば(あくまでおおざっぱな切り分けだけど)、この小説の一章から三章は、ラノベ的なキャラクター小説の世界を立ち上げ、構築するパートとしてあり、四章以降は、そのようにして構築された(いわばなんでもありに近い)世界のなかでも成り立ち得る「合理的ロジックを用いたミステリ」を実践してみせるというパートであるように思う。世界の基底条件として合理性が働かない世界で、合理による問題解決をどのように成立させるのかという問題設定。そしてそれは見事に実現されていると思った。最後まで読んでみると、いろんな要素のハマり具合がすごく上手くできているなあと思う。お約束通り(というか、教科書通りの模範解答)と言えば言えるのだけど、同時に、ちょっと他では読んだことがない感じ、でもある。手近に転がっている手垢のついた素材だけを使って、それらを裏返しにつなぐことで不思議な形を組み立てるような感じ。
この小説は「虚構推理」というより「虚構争議」というべき内容で、メタ・ミステリというかメタ・フィクション的な作品にもみえる。しかしそれは、作品世界をバイロジックとして成立させようとした結果、必然的にそういう風になったと言う感じで、それが目的ではないのではないだろうか。そうだとすればこの作品では、非合理的原理と合理的原理とが、どちらがどちらの上位となるのでもなく、双方が同等に作動しているのだから、そもそも「メタ」的階層性が成り立たない世界(合理のなかに非合理が含まれ、非合理のなかに合理が含まれるというような、常に上位が入れ替わり反転する、相互包摂的な世界となる)であるはずだから、これをメタ・フィクションととるのは間違っているように思う。