2019-06-30

27日の日記に書いたことを自ら裏切るようだが、Huluでアニメ版『魍魎の匣』をなんとなくだらだら最後まで観た。アニメ版『魍魎の匣』は、何年か前にレンタルDVDで最初の何話かを観て、あまり面白くなくて途中でやめてしまったのだが、今回は、「エンターテイメントとしての物語の組み立て方の技術」というところに着目して観ていたら、最後まで観られた。

(魍魎の匣』は、実写映画版の出来がとてもひどいもので---最初の30分くらいして観ていないが---アニメ版は、少なくとも綿密にきちんとつくられたものではあると思った。)

京極夏彦の小説は、たしか三作目か四作目くらいまではリアルタイムで読んでいるから、二作目の『魍魎の匣』は読んでいる。読んではいるが内容はほぼ忘れている。しかし、さすがに「一番の大ネタ」だけは憶えていたし、この大ネタにかんしては、今でも面白いと思うし、すごいことを考えたものだと思う。

今回アニメ版を、(ほとんど忘れてしまっている)この「大ネタ」に至るまでの道筋や出来事の絡み合いがどんなになっていたのかを改めて確認するというか、「ああ、こことこことがこうつながって、これがこう展開していくのか」という感じで観ていた。どの程度原作に忠実なのかは確認していない、話はけっこうかっちりとつくってあった。

原作を読んだのは九十年代の中頃だが(京極夏彦は当時すごく話題になって売れている作家だった)、あれだけ分厚い小説を三作か四作かは読んだということは、それなりの強さで興味やリアリティを感じていたのだと思う。そしてその感じを、アニメ版を観ながら、ぼんやりと少し思い出していた。

魍魎の匣』は一応、合理的に事件が解決する(ことの顛末が因果的に説明される)ミステリと言えるのだけど、合理的に解決されるミステリとしてはルール違反であるような要素が(意識的に)微妙に仕込まれている。例えば、人の見た光景(記憶)を直観的に見ることの出来る能力をもつ榎木津という探偵が出てくるなど。合理性の底が少し破けているというか、基本的には合理的世界だが、完全に合理的な世界というわけではないという含みがもたされている。

でも、それより重要なのは、探偵(京極堂)の役割が、事件を解決する(説明する)というより、「憑きものをおとす」というところにあるという点だ。しかしここで、探偵は、呪術や魔術によって憑きものをおとすのではなく、あくまで「言葉」と「パフォーマンス」によって憑きものをおとす。たとえば、何か印象に残ることを言われてしまうと、そのことを忘れられない限り、その言葉に拘束されてしまうというような意味として「呪い」が問題とされ、それを、なにかしらの言動によってパフォーマティブに「おとす」ことが問題とされる。

だから、オカルト的な意味での呪いでもなく、かといって、合理的な因果関係の解明によっても解消され切れない、そのどちらでもない形で人を縛っているもの、そのどちらによっても捉えられないものが問題になっている。初期の京極夏彦の小説のリアリティは、そのようなものを捉え、顕在化しているところにあるのだろうと、改めて思った。

(そう考えると、その影響から西尾維新の「化物語」シリーズが出てくるということも納得できる。)