●昨日までとは空の感じが少し違っていた。





●『ハーモニー』を読んだのだけど、ぼくには伊藤計劃の面白さはよく分からなかった。確かに、科学や思想における現代的なトピック(生政治とか脳科学とか)をバランスよくまぶしてあるとは思うけど、そこを除くと、とてもありがちなユートピアディストピア物語の範疇から出ていないように、ぼくには感じられてしまう。小説としての出来もそんなに良いとは思えない。以下ネタバレします。
●この小説が最後に示すビジョンは、人間が完全に合理的な判断によって行動するようになれば、そのような判断による、合理的な競争、合理的な抗争、合理的な殺し合い等々は、既に悲劇とも暴力とも言えず、それは、シマウマが草を食い、ライオンがシマウマを食うことと変わらないし、歯車と歯車が噛みあって時計が動いたり、ゲートを電子が通ったり通らなかったりすることでコンピュータが計算することと基本はかわらないと言える、ということだと思う。歯車やアンドゲート、オアゲートに意識や感情など必要ないように、人間にも意識は必要なくなる、と。システムが滑らかに稼働すれば、システムのノイズでしかない意識は消える、と。それは確かに、魅力的と言っていいかどうか分からないけど、誘引的ではあるユートピアのイメージだとは思う。
●でもこれは特に目新しい認識ではなく、17世紀的な機械論とかわらないようにぼくには思われる。ニュートン力学から導かれるラプラス決定論みたいな「雰囲気」を感じる。合理性という「超越性」が全宇宙を、あらゆる存在を貫いて安定的に作動しているというような前提。神の代わりに合理性を置いた科学的神学というか。
あるいは、個とシステムというとてもドグマティックな関係図式を温存したままで、それを挑発的にひっくり返しているだけに思えてしまう。つまり、図と地の関係を固定したまま、視点を図(個)から地(システム)へと移しただけではないのか、と。
「意識(わたし)」が信用ならない(大したものではない)のと同じくらいに、17世紀的な合理性‐客観性そのものも無条件には信用出来なくなっているのではないのだろうか。あるいは、合理性という言葉の内実が変質しつつあるというか。この小説には後者への疑問が欠けているように感じられた。
●それは、「わたし」を神に預けるかわりに「合理性」に預けたというだけのことではないだろうか。むしろ問題なのは、もしこの宇宙がそのはじまりから終わりまで既に「合理性(あるいは神)」によって決定論的にすべて決められていたとしても、それでも、たんなるビデオテープの再生でしない「わたし」が意識を持ってしまい、感情や苦しみや喜びを持ってしまうとしたら---きっとそれも何かしらの合理性に基づくのだろうけど---それは何故で、そのことを一体どう処理すればいいのか、ということの方ではないだろうか。この小説への最大の不信感は、そんなに簡単に「わたし」を処理できるのならば、誰も苦労しないんじゃないか---というかそもそも、それで済むのなら「わたし(意識)」などはじめから生まれなかったのではないか---という感触にある。コンピュータだって計算すると熱を発するのに、脳に合理的思考をインストールするだけで本当に意識が消えるのだろうか。いや、もちろんこれは嘘話なわけだけど、その嘘(モジュール間の合理的な重みづけによって脳内会議=意識は消える)が、こちらの感覚(リアリティ)を揺るがせてくれない。これはぼく自身のリアリティの問題だというわけなのだけど…。
●とはいえこの小説は、「わたし」を公共的なリソースとして人質に取っているかのような調和を強要する生命至上主義社会から、「わたしのものとしてのわたし(の身体)」を取り返そうとする少女-女性の物語として、つまり逆に「わたし」を強く肯定するような展開で進行する(この未来社会の記述も、ぼくには面白いとは思えなかった)。主人公の行動の動機は、世界が今どのような状況にあろうと無関係で、あくまで個人的なものだとされる(これもちょっと極端ではないかと思った)。それが最後にくるっと逆転する。そのような「わたしをとりもどそうとするわたし」の内面の記述が、もはや絶滅した動物の記録のような「物珍しいもの」に過ぎない、ということになって小説は終わる。そのように、この小説は様々な「両極端」の併置によってできていると思うけど、その両極端の配置が紋切り型で、そこに「新たな認識(配置の変動)」を導くような仕掛けがあるようには思えなかった。少なくともぼくにとっては、揺るがせられるものはなかった。小説の結末を否定するにしろ肯定するにしろ、認識の構えそのものはあまり動かないと思う。
●人間の生活は、社会は、外から見ればそれまでとまったくかわらずにつづいているのだけど、ただ、その人間の内部には、既に意識も感情も生起していない、のだとする。そうだとしても、世界は滞りなく進行するだろう。いやそもそも、「滞り」を感じる意識(主体)が存在しないのだから、起きた事はすべて「合理的に起きた事」に過ぎなくなる。このような小説の結末からの延長として、意識を持たない自動人形としての人間=ゾンビという、「屍者の帝国」につながる主題が出てくるのだろう。そしてその舞台が未来ではなく、17世紀的な機械論が支配的な(アインシュタイン量子論以前の)19世紀のロンドンであるということは、主題とのかかわりからすれば『ハーモニー』より適切ではあると思う。この「自動人形(自動機械)としての人間」という主題もまた17世紀的なものだから(モロにデカルト-スピノザ的な主題で、この辺りのことについては上野修デカルトホッブズスピノザ』がとても面白い)。
●ここで「ハーモニー」とは、個と個の調和‐関係ではなく、個とシステムの調和でしかない。個同士が意識的に空気を読みあって互いに上手くいくようにしよう、というのは無理があしストレスが溜まるから、システムにすべて預けてしまおう、と。つまりここでは「システム」が実体的なものとして前提にされてしまっている---では、システムとは一体何で、何故、どのようにして創発され、維持されるの? というような問いはない---から、単調なのだと思う。例えば、個が完全に自らをシステムに預けたとしても、システムはちゃんと維持されるの? という疑問も湧く。
●社会のハーモニー(調和)が、意識の統合や融合ではなく、個の意識の消失として実現されるというのが、この小説のキモであるだろう。これはミァハという少女‐女性の一種の自殺(自爆テロ)によって実現される。ミァハは、自殺することに失敗したから、今度は世界中を巻き込んで自分も「消える」ことにした(そうせざるを得ない状況をつくった)。究極の全体主義ユートピア/ディストピアは、究極の自分勝手によって実現される。ただ、すべての「わたし(意識)」が消えてもシステム(人間たち‐社会)は残る。そのイメージは、わたしが死んだ後でも世界はある(残る)、ということの言い換えでもあるような感じがある。ただそれは同時に、わたしが死んだ後の世界にはゾンビしか残っていない(何故ならそれを「感じる」わたしがいないのだから)、というような逆立ちした幻想でもある気がする。自分が死んだ後の世界を(自分の死に対する復讐として)ゾンビたちの世界として想像すること。自分のいなくなった現世を黄泉の国化してしまうという逆転。このような感触にこそ、この小説の「味わい」があるのかもしれない。この感触は面白い。
●この小説の「合理性」への依存の仕方は、意地の悪い言い方をすれば、子供たちの集団が、子供なりの論理のなかで遊んだりケンカしたりしている時に、その中の一人が急に外から持ち込んだ「大人の論理(ここではある種の科学的な言説)」を、「大人の権威(合理性)を後ろ盾」にして言い立てることで、その場を空気を覆して他の子供たちを圧倒しようとしているかのような手つきが感じられてしまう。積んだ積木を壊すようにその場の論理を逆転させることの気持ちよさに導かれているような感じ。
●この小説はある種の「新しさ」という意匠を採用しているのだけど、その割に思考の枠組み自体が古いままであるように感じられる。
登場人物の造形もあまり面白くないと感じてしまう。この小説からは、世界観や思弁的な新しさも、イメージの新鮮さも、お話の展開のレベルでの「おおっ、そうくるのか」という意外性も、ぼくには感じられなかった。
登場人物たちが幼稚な感じで、世界観がそれに沿った形で組み立てられている(ミァハとトァンとの思春期的関係性からの直接的な延長のような形で世界‐世界観が組み立てられている)ところがちょっと新しいのかもと思ったけど、でも、そういうことだったらラノベの方がもっと過激にやっているんだろうとも思った。
●面白さがよく分からないということをさらっと数行だけ書こうと思っていただけたったのに……。何かについて批判的なことを言う時にこそ、その人の弱点や限界、偏り、頭の悪さ、知識の不足、欲望の邪さ、下品さが露呈されるのだということは、ネットをみていると(いや、ネットに限らないけど)嫌という程感じさせられるわけで、今日の日記がそうではないものになっていることを願っています。
「お前は何も分かっていない、伊藤計劃のここがすごいのだ」というのがあったら教えてほしいです。