●浪人時代の恩師が亡くなったという連絡を受けて動揺しています。大学に入ってからはお会いすることはほとんどなかったですが、ぼくにとって、美術における最初の先生でした。
●『ユリ熊嵐』第7話。今回の銀子の話、かなり直接的というかえげつないというかなまなましいというか。熊と人間との戦争ということになっているけど、神からの承認のために銃をとるということは、銀子は軍人というよりテロリスト(というか、テロリストを想定した存在)ということだろう。るるがお姫様だったこととはずいぶん違う。紅羽も銀子もどちらも銃をもつ存在だが、紅羽の銃はいわば熊を狩る猟師の銃であり(紅羽の部屋にはマタギ風の笠と蓑がある)、銀子の銃は(おそらく神からの承認のためには自爆テロさえ厭わないような)テロリストの銃である。この違いは、十分に「断絶の壁」であり得る。紅羽は人(母や純花)のために熊を駆除するが、銀子はクマリア様からの承認のために人を殺す。
だがここで、ステンドグラスのクマリア様が、実在する(本来、敵であるはずの)紅羽に重ねあわされる。クマリア様とは、テロ組織の宗教的指導者によって与えられたヴァーチャルな「承認を与える存在(権威)」であり、概念、イメージである。だがここでは、(神であり、ステンドグラスの図像である)クマリア様という(空虚な)イメージが媒介となって、銀子と紅羽との出会いが実現する。しかし元々は、クマリア様というイメージは銀子をテロリストに仕立てた危険な媒介でもある。承認を与える権威としてある危険なイメージが、関係をとりもつ媒介へと変化する。ステンドグラスから絵本へ。クマリア様の両義性。
(例えば、銀子がクマリア様の承認を求めてテロリストとなったことと、針島が黒幕からの承認を求めて紅羽に嫌がらせしていたこととは、同じ構図だと言える。つまり、銀子と針島の違いは、紅羽の有無にすぎない。針島にも紅羽に相当する人物との出会いがあれば、彼女も「透明」を拒否して銀子になっていたかもしれない。)
銀子にとって紅羽は、超越性(クマリア様)と具体性(紅羽)が重ね合わされた、階層を跨ぎ越える者であり、それは「ウテナ」における王子様に等しいだろう。このような存在との出会いこそが「スキ」であり、そのような存在からの承認が「キス」であり、それがあれば集団の空気に染まる必要もないし、透明な嵐も怖くない、と。
(つまらないツッコミ。「どうしてスキの歌を知っている…」と言うけど「アヴェ・マリア」のメロディは誰でも知ってるでしょう、と。だから、銀子=忘れた友達というのは誤解かもしれないし、もし誤解であっても、ポピュラーな曲の媒介作用がそのように「誤配」として働いてもよい、ということも言える。勿論、この作品に関して、これは言い過ぎ。)
●だが、その出会いを紅羽は忘れていた。たとえば、自分で設定したパスワードを、思いだそうとしても思い出せないというのとは違って、忘れているということは、それを忘れているという事実そのものを忘れている。紅羽は、自分が過去の友達のことを忘れているということを忘れていた。これは、「ウテナ」や「ピンドラ」が、忘れたくても忘れることのできない過去に囚われている人たちの話であることとは違っている。
とはいえ、「ウテナ」で王子様との過去が作品の冒頭に示されているのとは違い、「ピンドラ」の登場人物たちを縛り、結びつけてもいる「事件」が明らかになるのは、作品の半ばを過ぎてからで、表面上(つまり、観客にとっての登場人物たち)は、それまでは事件を忘れているのに等しいとも言える。登場人物にとって過去にあることが、物語の展開においては未来に置かれる。すべての登場人物に謎(表に対する裏)があり、その裏の顔が一人また一人と明かされることを通じて、事件とそれにまつわる登場人物たちの因果の詳細が明らかになってゆくという「ピンドラ」において、裏の顔が過去に結びつけられることで、過去が未来に置かれる。
しかし「ユリ熊」では、過去がもっと頻繁に介入する。回想が物語の現在時に頻繁に挿入され、過去が現在に繰り返し文脈を与え、与え直し、過去と現在とがほぼ同時進行するような「ユリ熊」では、過去が登場人物の裏の顔に結びつくというわけではないようだ。人物たちに裏はあるが、その裏(謎)は、わりとたやすく、次々に明かされて行く。どちらかというと、過去の頻繁な介入は、物語の現在の読み直しを何度も要求するというものとなっているようだ。
ウテナ」で王子様との過去は番組の冒頭に繰り返し何度も提示された。「ピンドラ」の事件は、誰にとっても重要であり、誰もがそれを意識しているが故に半ばまで隠されていた。「ユリ熊」では、様々な謎(裏)が次々と明かされるなかで、重要な過去の出来事は「忘れている」ということによって失われていた。「ウテナ」においては繰り返し示され、「ピンドラ」においては重大であるが故に意識的に隠されていた物語の核にある過去は、「ユリ熊」においては失われている。「ユリ熊」の物語はこの失われたものへと向かっているようにみえる。今までの作品とは、出発点と目的地が逆になっているようにみえる。
過去に囚われているということそのものが、未来において、試練をもたらすと同時に新たな関係を築く原資となる。いわゆる「トラウマ決着」とは逆向きに進む物語が幾原的な物語であった。しかしそれがさらに逆向きになると、失われたものが取り戻されてハッピー、あるいは失われたものが永遠に失われてしまってバットエンド、という、あまり上等ともおもしろいとも思えない物語になってしまう(「日本をとりもどす」みたいな)。今までのところ、「ユリ熊」という作品は、おそらく意図的に、そのような紋切り型、類型に近づいている。そして、この作品がそのような類型を、どのように突っ切って、あるいは裏切って、その先を見せてくれるのか、というところを、手に汗を握りつつ見守りたい。