シネスイッチ銀座に、ゴダール『さらば、愛の言葉よ』を観に行った。映画がなかった時代に初めて映画を観た人は、こういう驚きを経験したのではないか、というような驚き。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、と思っているうちに七十分が過ぎた。とにかく、えっ、今の何?、何が起こってる?、という連続だった。混乱の多くは「これ」が起こっているのが何処なのかが判然としないところから来る。画面なのか、眼なのか、脳なのか。
右目と左目の間の距離が勝手にのびたり縮んだりして、右目と左目が勝手に別々のものを見たりしはじめる。脳のなかに直接手をつっこまれてかきまわされている感じ。今までにまったく経験したことのない知覚体験をした。これは、人間の脳の構造を作り替えようとするような3Dだと思う。素朴な疑問だが、ゴダールはこれをどうやって編集しているのだろうか。観終わった後、首の後ろ側が痛いくらい凝っていて、帰りの電車で爆睡してしまった。
おそらく2Dで観ると、いつも通りのゴダールに見えると思う(それでも、いつもよりさらに飛ばしているとか崩しているとは感じるかもしれない)。でも、3Dになって、マネがいきなりマティスになった、というくらいの変化があったと思う。
字幕など読んでいる余裕はなく、言葉が分からないので、この映画が何を言っていて、登場人物の関係がどうで、どういう物語なのかまったく分からないのだけど、そもそも、そういう方向へ興味が向く余裕がない。「なんだこれ」という以外の言葉が出てこない。作品としてどうこういう以前に、とにかく新鮮な驚きが次から次へとつづく。たんに視聴覚的なスペクタクルとしてだけ観ても、この映画の千倍以上の予算をかけただろうと思われる『ゼロ・グラビティ』よりすごいのではないか。
(ゴダールに興味がないとか嫌いとかいう人でも、感覚的びっくり箱としてだけでも十分に面白いと思う。)
テクノロジーに対する芸術の意味があるとすれば、こういうことなのではないか、という答えの一つがここにあるように思われた。3Dという技術を、誰もこんな風に使おうとは思わなかったけど、こんな風に使うこともできるし、こんな風にしたら面白いでしょ、という感じ。現実空間の再現や、臨場感のデフォルメされた強調ではなく(そういうものは他にもある)、まったく別の3Dであり、自然なものとは異なる知覚経験なのだが、同時に、その「世界のあらわれの新鮮さ」は、リアルとしか言いようがない(しかし、まったく非現実的で、混乱するような知覚経験をなぜ「リアル」だと感じるのだろうか)。
作品の主題やトーンとしては、重たくシリアスなものなのだろうけど、3Dに対する態度は、陳腐な言い方だけど、新しいおもちゃの(あまりお金のかからない)新しい使い方をいろいろ考え出して、「実はこんなこと考えちゃったんだけど、すごいでしょ、ね、すごいよね、やっぱ俺って天才じゃん」と嬉々として戯れているような感じにみえる。そして、ぼくはそれを観て「わーっ、おじいちゃんすごいやー」と感激している、夏休みにおじいちゃんの家に行ったアニメのなかの紋切り型の孫のような状態になる。
●この作品に関しては、すべてのカットに関して、右目パートと左目パートの違いを調べて、それが(眼を通して)頭のなかで合成させられた時にどんな効果として現れるのか、ということを全編にわたって分析したいという欲望がわいてくる。だが、ぼくはそれができるような環境にはいない(もしDVDを手に入れられたとしても、3Dで再生さられる機材がない)。まあ、世界中に映画研究者は沢山いるのだから、そのうち誰かがやるのだろう。でも、こういうのは結果だけ見せられてもあまり面白くなくて、自分で実際やってみないと意味がない。
●あと、この映画にとって時間とは何なのだろうか。ゴダールの映画はもともとそういうところがあるのだけど、この映画は特に、時間というものを上手く構成できないというか、感じられない感じになっていた。
●こういうことをゴダールという固有名に閉じこめないで、いろんな人が勝手にパクッて、いろいろ勝手に展開させればいいのにと思う。このゴダールの新作に関しては「ゴダール」という名前がむしろ邪魔になる。この作品をゴダールがつくったということを忘れて観た方がいいようにも思う。