ジャ・ジャンクーの『世界』

●京橋のメディアボックス試写室で、ジャ・ジャンクーの『世界』を観た。この映画についてはレビューを書く予定なので、ちょっとだけ。ぼくが今までに観たジャ・ジャンクーの映画(『一瞬の夢』『プラットホーム』『青の稲妻』)のなかでは、「作品」としては一番上手くいっていない、と思う。「世界公園」というテーマパークを舞台にするというのは、アイデアとしてはすばらく面白いのだが、しかしその面白い「狙い」に引っ張られ過ぎて、それがジャ・ジャンクーの資質と上手くかみ合っていない感じなのだ。ただ、じゃあつまらないかといえばそんなことはない。ジャ・ジャンクーはずっと一貫して「同じ唄」を唄いつづけている、という感じがある。それが停滞なのか、本物の証なのかはともかく、その「同じ唄」はこの映画からも充分に聴き取れて、それはやはり素晴らしい。それは簡単に言えば「世界は大きくて、人間は小さい」という感覚なのだと思う。世界はこんなに広大なのに、人間はちっぽけなものでしかない、とか、この広大な自然を前にすると、自分という存在の小ささに気付く、とか、そういう紋切り型のものではない。(それは結局、人間中心の、人間から見た見方であり、感嘆に過ぎない。)世界の大きさと人間の小ささは同等なものとしてあり、しかしそれはきっぱりと切り離されている、という感じだ。そしてそれが、物語としてでもなく、作品の「仕掛け」としてでもなく、風景と人物との乖離として、それぞれの場面の構成している視覚的、聴覚的なものの感触によって、浮かび上がってくるのだ。ジャ・ジャンクーの描く「物語」は、アジア的でウェットな「情」によるものなのだと思うが、その「情」は、けっして画面全体にまで、風景全体にまでは広がっていかず、広大で圧倒的な世界のなかのごく一部の小さなテリトリーしか与えられていない。(物語=情のウェット感と、世界と人間とがきっぱりと切り離されている、その「きっぱり」さのドライ感との、不思議な共存にこそ、ジャ・ジャンクーの「唄」の独自の感触があると思う。)人間は、広大で圧倒的な世界に晒されながらも、小さな「情」のテリトリーのなかにしか、生きる場所がない、という感じ。この感じは、ジャ・ジャンクーが、大陸の大きさや現代の中国の状況のなかで生活していることと、決して無縁ではないだろうと思う。(余談だが、携帯のメールをアニメーションで表現するというのは、ちょっと面白いと思った。)