●約束の時間があったり急いでいたりする時に、信号や踏切なんかにひっかかると凄くイライラする。特に、ぼくのアパートから駅までの間に、(大して道幅も広くないし車の量も多くない道路なのに)車の通る大通りの道の方の「青」ばかりがやたらと長く、そこを横断する方の「青」がやたらと短い信号があって、電車の時間が迫っている時などにひっかかってしまうと、気が気ではない。しかし、目的もなくぶらぶら散歩している時などは、信号や踏切はむしろ、立ち止まるための口実をあたえてくれて、ありがたい。これといった目的もなく、ただぶらぶら歩いているつもりでも、自分のペースというのは案外決まってしまっていて、律儀のそのペースを守ったりして、リズムが単調になりがちだったりする。(だいたい、ただ意味なく「立ち止まる」ということがとても難しい。)無意識というのはとても生真面目なもので、無意識だからころ強固にはたらいてしまう「自分のペース」から、ふっとズレるためには、何かしらの外的な要因が必要なのだ。ぶらぶらと歩いていて、信号にひっかかって立ち止まった時にふと感じる、ちょっとした新鮮さ(自分の身体の運動感覚がふっと揺らぐ感じ)が、外から感じるものの幅をぐっと広げてくれることがある。(逆に言えば、その「新鮮さ」によって、ぶらぶらと気ままに歩いていたつもりがいつの間にか気分が単調になってしまっていたことに、はじめて気付くことが出来るのだ。)これを意図的にやろうとするのは難しい。そのためには、ちょっとした「道具」があったりするとよいかも知れない。例えばカメラを持ち歩いたりすれば、目にとまったものを撮影するために、ファインダーを覗き、フレームを調節して、シャッターを押す、というその時間だけ、それを口実として、ぶらぶらと歩くリズムを崩して「立ち止まる」ことが出来る。しかしこれもまた微妙で、それがいつの間にか「良い写真を撮る」とか「面白い被写体を探す」ということの方が目的化してしまうと(下心が発生すると)、ぶらぶらと歩くその「時間」がだいなしになってしまうだろう。(目的もなくある空間のなかを移動することで、空間を移動する「身体の感覚」と、身体が運動している環境としての「空間のあり様」とを同時に捉えようとする、あるいは、その身体と空間との「関係そのものが動いて行く感じ」を捉えようとする、その「開かれた感じ」が、写真を撮るという目的に向けて組織化され、閉じられてしまうだろう。)