●『長江哀歌』(ジャ・ジャンクー)と『ラストタンゴ・イン・パリ』(ベルトルッチ)をDVDで観た。
『長江哀歌』は、公開時に映画館で観た時と、ほぼ同じ感想だった。ぼくはほとんど無条件にジャ・ジャンクーが好きなのだが、この映画では、ジャ・ジャンクーが「自分のやり口」に手慣れてしまい過ぎている感じ。あるいは、三峡の風景があまりにも絵に(映画に)なりすぎる、凄いものであるためなのか、風景の捉え方が美的になりすぎてしまっていて、生々しさがあまりない。ジャ・ジャンクーの映画は目よりも先に耳から入って来るのだが、その「音」にしても、建物を壊すハンマーの音とか、船の汽笛の音とか、きれいに加工しすぎていて(括弧付きで「音楽的」になっていて)、いつもの、強い圧力で雑音の塊が迫って来る感じではない。
ただ(これも前に書いたことだが)、チャオ・タオが出て来る一連の場面はすごくいいと思う。チャオ・タオがペットボトルから水を飲む仕草からは、この地方の湿気と暑さが生々しくつたわってくる。出稼ぎ(?)に出て二年間も何の音沙汰もなくなっていた夫を探しに三峡までやってきたチャオ・タオが、夫の軍隊時代の友人を頼って消息を探すうちに、どうやら夫は経済的に華々しく成功していて、お金持ちの愛人もいるらしいと察せられる。軍隊時代の友人のおかげで何とか夫と会うことが出来たものの、二人の間の溝は明白だ(夫はいかにもバブリーなセカンドバックを脇に抱えている)。夫の白々しい釈明を聞き流して、帰る、と言って背を向けて去って行くチャオ・タオを夫は追う。瓦礫の並ぶ長江の河岸を無言で歩く二人。夫はたちどまり、右手をすっと前に差し出し、チャオ・タオはその手をとり、二人はほんの一瞬、かるく体を密着させる。これは、二人の体の前面がふっと触れたというくらいで、抱擁どころかハグとさえ言えないくらいの微かな接触なのだが、このほんの一瞬の微かな身体的接触が、ここまでこの映画でさんざんと見せられつづけてきた圧倒的な風景の強さと拮抗し、あるいは押し返すくらいの強い動揺を観る者に与える(この映画では人の身体同士が接触することはほとんどない)。ちょっとしたものであれ、身体的な接触のもつ「意味」の強さ。こういう場面をつくれるところが、ジャ・ジャンクーはやはりすごいと思う。勿論、こんな微かな身体的な接触で、二年の空白の時間に出来た行き違いが解消されるわけではなく、圧倒的な現実の進行を押しとどめられるわけでもなく、実際このすぐ後に、チャオ・タオは夫に離婚話を切り出す。とはいえ、このほんの一瞬の、直接的な身体的接触がいかに貴重であることか。チャオ・タオにとっては、このためにだけで、わざわざ夫を訪ねた意味がある。この一瞬の接触を成立させるためにこそ、そこに至るまでのすべての風景描写があったのではないかとさえ感じられる。これがあるから、ジャ・ジャンクージャ・ジャンクーなのだ。
ラストタンゴ・イン・パリ』は変な映画。この時期のベルトルッチが、やりたいことをとにかくガンガンやって、それを脈略なく繋げた、という感じ。例えて言えば黒沢清の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』みたいな。あと、マーロン・ブランドが、おっさんなのに妙に幼顔で、そのバランスの悪さが変で面白い。これはベルトルッチが三十歳前後くらいの時の映画で、もしマーロン・ブランドと同じくらいの年齢(設定では45歳ということになっていた)で撮っていたら、もっとねちっこくて重たいもの(中年の実存的な重さ!)になっちゃっていたかもしれない。でも、ベルトルッチは(イタリアの光と空気の磁力から離れると)けっこう「軽い」人なのだという感じが、この映画を観ると感じられもする。マーロン・ブランドとマリア・シュレイダーがアパートの部屋で、ほとんど無理矢理な感じではじめてセックスする場面の、びっくりするくらいのあっけなさが面白かった。ワンカットで撮られているのだが、ビリッとなにかを破く音(あるいはファスナーをおろす音)がして、マーロン・ブランドがほんの数回腰を動かすだけで、えっ、もう終わっちゃったの、というくらいにあっさり終わる。このあっけなさが、この映画が鬱陶しくなってしまうことから救っているように思った。