08/04/25

●散歩をしていて、道に迷うことが出来た。住んでいるところの近くは、もうかなり散歩し尽くしてしまっているので、道に迷うどころか、未知の場所に辿り着くことも困難なのだが、今日はほんの十分程度なのだけど、完全に方向を見失って、自分がどの辺りにいるのかさえ分からなくなることが出来たのだった。近所(といっても、歩いて一時間以上はかかるところだったけど)を歩いている限り、たとえ今まで通ったことのない場所に出たとしても、方向を失うということはまずないのだが、今日はすっかり失ってしまった。方向を失うためには、ただ未知の場所に出るだけでは駄目で、そこに至るまでに、いかに複雑な、つまりデタラメな経路を経たのかということが重要になる。いかに気まぐれに歩くことが出来るかということ。これに成功するのは、思いのほか難しいのだ。はじめて通る道に出たとしても、だいたいこっちの方向に、このくらいの距離歩けば、あの辺りに出るはずだというカンがはたらき、だいたいはそのカンの通りになってしまうのだが、そのカンがまったく外れてしまって、さらに見馴れない場所に出てしまったところから、えっと驚き、方向を失ったまま歩くという状態がはじまる。結局は近所なのだから、しばらく歩いていればどこかしら見知ったところに出てしまうのだが、それまでの束の間、まったくどこだか分からないところを分からないまま歩くという経験が可能になるのだ。これは本当に希有な時間なのだった。今日は、散歩は一時間くらいで軽く切り上げて、喫茶店でがっつり原稿を書くつもりだったのが、おかげて随分とたっぷり歩いてしまった。
●作家論、四十枚を越える。
ベルトルッチシェルタリング・スカイ』をDVDで久々に観る。うわー、映画だなー、と思う。映画監督っていうのは、自分の欲望を実現させるために、大勢のスタッフやキャストを手段として動かしたり、大きなお金を消尽したりすることに、少しの抵抗もないような人でなければ駄目なのだなあ、と思った。(もしこの映画がこけたら、プロデューサーはどれだけの借金をつくるんだろうか、とかいうことを、撮影の時は少しも申し訳なく思わない人、というか。)
ぼくは基本的には、ベルトルッチは『1900年』でやりたいことのすべてをほぼやり尽くしてしまい、『ラストエンペラー』や『シェルタリング・スカイ』の時期は、自分が七十年代にやったことを、規模や予算を大きくして(そして中味をちょっと薄くして)反復しているだけだと思うのだが(この時期は「拡大すること」こそが目的だったのだと思うのだが)、映画というのは、規模を大きくすればそれだけでそれなりに凄くなるわけで、単純に、凄い風景が映っているというだけでおーっと思うのだし、大勢の人が動いてるのが映っていればそれだけでおーっと思うもので、しかも七十年代ほどのテンションはないにしてもベルトルッチなのだからそれは見事なもので(まだ、最近のベルトルッチほどゆるゆるじゃないし)、ひたすら豪華なマニエリスムを楽しむように楽しい。ほとんど何も考えないで、気軽にするすると観られる程度には薄くて、しかし138分の間すこしも飽きることなく常に新鮮に眼が惹き付けられるくらいに充実している。無責任に美食に徹して、わー、すげー、と思いながら最後まで観られる。そして、そのような時期のベルトルッチにとって、坂本龍一は最良の作曲家だったのだなあと思う。