世界では、日々あらたな事件が起こり、人はそれに少なからぬ衝撃を受け、傷つく。それは当然のことだ。そして、人々はこぞって、その事件について語り合い、その事件の衝撃を互いに共有していることを確認して安心し、あるいはその(不安の)共有を楽しむ。それは、きわめて低俗で下劣な(犯罪的ですらある)テレビのワイドショーのレベルから、あたかも世界について真剣に思考しているかのような、人文学的な言説まで、その言葉を発している人の頭の良さが相対的にことなるだけで、基本的には何のちがいもない。それは基本的に転移と想像的同一化、外傷の共有という作用の産物であろう。そのこと自体は別にそれはそれでいいし、転移と同一化、外傷の共有は、ほとんどの人間にとっての基本設定だから、それは(ぼく自身もその内部にいる)避け難い必然だとも言える。しかし、その退屈な反復を、あたかも「世界に対する誠実な態度(思考)」であるかのように信仰し、それを他人にまで強要しようとする人たちをみると、仕方がないことだと頭では分かっていても、その無自覚な暴力に、というかその暴力性に対する無自覚さに、かなりげんなりするし、苛立ち、気が滅入ることは確かだ。
以下は、「ストア派アリストテレス・連続性の時代」(樫村晴香)からの引用。これは9・11の後に、それを意識して書かれたものだが、そこから離れても、ぼくの現在の「気分」にぴったりとあてはまってしまう。

《何かことを起こす者がいると、人はすぐに、背後に貧困か幼児虐待を指摘する。マルクスフロイトの下部構造は大流行だが、因果関係というものが元々そうであるように、それは単に因果関係の想像化であり、人は、すぐにミサイルを撃ち返したがる野蛮人、精神病者が事件を起こせば厳罰を要求する野蛮人と、自分を区別するためだけの呪文としてそれを語る。しかしビンラディンは貧乏でも病気でもなく、たとえ貧乏か病気でも、人が人を殺すには十分な文化精神的理由がある。彼らが耐え難いと考えているものは、私たちがそう考えるものと同じであり、他人を蹴落とすことを自分への挑戦だと考える類の信仰である。》
《政治社会への認識は、概ね飽和状態にあり、誰もがだいたいのことを知っており、しかしその先の、現実の技術的、経済的、心理的細部は、わからないことだらけであるのも、また人々は知っている。我々は本当はどのくらい搾取されているのか、あるいはしているのか。都市郊外のアラブ人は本当は貧しいことが苦痛なのか、広告業者やカルフールが煽り続ける貧しい欲望が苦痛なのか......。》
《細部の認識は、科学のように、あるいはまさに科学として増進しえるが、それは政治、社会の統括的認識の増進には、ほとんど常に結びつかない。細かな知識の集積は、現実社会への総合的認識、感情を、ある時突然変更する。だが、多少の文化資産をもつ者がいい年になれば、それもなかなか生じないこと、それを知りつつ、その感覚を共有する儀式のように人々は議論し、新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ。政治的な事件が与える一瞬の驚きと、それが既存の現実認識に結局吸収される失望と安心は、人々の間の個々の出会いが、彼の自己認識に何も影響しないことの、隠喩である。ビンラディンが神を信じているのか、神を信じていると信じたがっているのか、現実がそのどちらであろうと、各人が既に彼についてもっている、精神分析的、思想史的、社会・経済学的観点から演繹されたイメージを、あまり覆すことはないだろう。》
《ブッシュが「アメリカへの攻撃は自由に対する挑戦だ」というとき彼は正しい。この言葉が笑いではなく漠然とした居心地の悪さを人々に与えるのは、アメリカという、世界の中で特殊な一群、神に向かって宣誓することを強要し、自由や愛を文字どおりの普遍性として信仰する唯一の集団が、その信仰ゆえに、絶え間ない技術革新と投資に邁進して世界経済の生産力となり、それを信じない者の下部構造となっているからである。膨大な階級格差と敵意の連鎖は善意による防衛の原動力であり、起業資金を求める者がフランスや日本で体験する、耐え難い銀行の高慢さや怠慢さとは、正反対の誠実さをこの国で準備する。アメリカの投資が経済を成長させ、剰余価値論的には搾取率を上げつつも、新技術がそれをはるかに超えて生産性を上昇させ、国民全体の資本蓄積と実質生活水準を向上させるのは、マハティールもベン・アリも知っている。》
《真理あるいはその開示が、そのまま善として倫理的価値をもつのは、開示の実体が転移だからであり、外傷の共有がそれを支える。真理はポーカーの札をめくることであり、自由とは、どのカードを取るか自由なことに過ぎず、幸福は、よいカードのことである。近代の自由の観念、哲学者を悩ませた自由と必然の関係は、この内部にある。無数の森と無数の街を、日々訪れ通り過ぎゆく者は、それを自由とも必然とも思わず、限定された選択とその帰結に身をまかす。円卓に座り、対戦相手と鏡像的関係を取り結び、自分がカードをめくった瞬間、他者が既に席を立ちゲームが放棄される可能性など夢にも思わない者だけが、共時的に並列化された選択肢の複数性と、自分が現実に取れるカードの単数性の落差に驚き、それを自由として概念化する。自由の内実とは、人工的に準備された複数選択肢の等質性のことであり、頭の中で想像し均質化された限りの、殺すべきか、殺さないべきか、という法論議であり、つまり他者と一致・同化して単一の人工規則に従うことである。しかもそこでは、各人を支配する規則・法は、各人相互の鏡像的同化の背後に隠れ、主体はどのような象徴的規則に従っているのかも意識化しない。》
《そして今日、人々は国境を越えはじめ、全ての国籍は債券として取り引きされ、その結果従うべき法もまた取り引きされる。転移と想像的同化に依存する、自由や正義といった抽象観念は陳腐であり、暫定的にのみ使用される。》