●社会の状況を反映している作品といわれるものは、往々にして、社会を見ている時の(特定の視点としての)「わたしの気分」を反映しているに過ぎないが、その気分が多くの(多様な、というより、同様の傾向をもつ)人々に共有されていれば、それは「リアル」ということになる。時代のリアルが気分の同調であるとすれば、それが正しい認識である必要はない。リアル、あるいは臨場感、説得力などをつくりだしているのはその人の「頭のなか」であり、つまりその人が既にもっている知や経験の体系(の偏り)と、情報の取捨選択や処理の仕方の傾向だ。リアルかそうでないかは、(現状認識として妥当であるかないかではなく)それを感じる人の「頭のなかの地図」と合致しているかどうかで決まる。
●事件の現場にいることの臨場感や、インターネットから日々刻々と入ってくるリアルタイムの世界情勢の臨場感も、基本的に(脳のなかで構成されるものとしては)、映画館の3D映像やドルビーサウンドの臨場感と同種のイリュージョン的な効果なのだということを、強く意識するべきではないかとぼくは思う(映画と現実が同じだと言っているのではなく、脳が臨場感-リアリティの効果を構成する原理が同じだということ)。
●つまり、「わたしのもつ危機意識(わたしの行う情報処理の仕方)」そのものの妥当性をまず疑うべきではないか。
●ならば、芸術の役割とは、リアルに同調することではなくて、同時代的なリアルや臨場感や説得力という「同調圧力」から逃れ、あるいは零れ落ちたところに何か別のものを見つけ、そこから考えを組み立てようとすることなのではないかと思う。少なくとも、「同調しなくてもよい場」を世界の片隅につくりだすことではあるのではないか。
(例えば、相対論や量子論は、臨場感や実感が決して納得することのない――同調することのできない――形式で世界を記述するが、それが、理論的検証や繰り返される実験やテクノロジーへの応用を通じて「現実に対して妥当」であることが示されることによって、人はそれを受け入れるしかなくなる。そこではじめて臨場感や説得力や脳内地図が「批評」される。そこではじめて、臨場感とは別の意味でのリアルが垣間見られる。芸術がそのような強い力を持ち得るものなのか、あるいは持つべきであるのか、は、分からないけど。)
●例えば、二十世紀前半のヨーロッパやロシアでの前衛芸術の隆盛(と衰退)は、その時代が世界を巻き込んだ大きな戦争の時代であったこと、そして、物理学の革命(相対論、量子論)の時代であったことと無関係ではないだろう。しかしその「関係」は、「臨場感への同調」によってもたらされるような単純なものではないはずだ。むしろ、臨場感では決して捉えられないものによって繋がっているのだろうと思う。その繋がりは、事後的に(つまり一定の時間が過ぎることでその場の臨場感の力からようやく自由になれた時に)知的な手続きを通じてはじめて見えてくるという種類のものであるはずだ。