●おそらく陰謀論に至る思考には三つくらいの特徴がある。(1)敵の過大評価、(2)常識に対する逆張りへの好み、(3)ノイズや小さな徴候から過剰な意味を読み込む。
(1)最初にあるのは不信感ではないか。右派からはじまる陰謀論では、リベラリエリートへの不信や敵意から、左派からはじまる陰謀論では、政権や体制、大手メディアに対する不信感から、はじまる。そしてその、不信感という捉えがたいモヤモヤを、敵の悪によって一元的に説明しようとする。累乗される不信の増加(あるいは、「味方」の弱さへの「理不尽だ」という感情)が敵への過大評価に繋がり、敵を巨大化させ、そこから常識を超えた大きな悪を引き出すことになる。最初の不信はおそらく正しいのだが(おそらく、それは敵であるという直観は正しく、そこに悪や欺瞞がまったくないというわけではないのだ)、不信の増大からくる敵への過大評価が、認識の暴走を招く。
(2)その時、逆張りへの好みが暴走のための燃料となる。我々は、たとえば、一見健康的に思われる習慣が実は不健康だったとか、逆に、一見強面の男が実は心優しかったとか、その手の逆説的ナラティブにとても弱い。真犯人が意外であるほど面白い(説得力がある)というミステリ的ナラティブは、途中のロジックをすっとばして「意外性=真実らしさ(リアリティ)」という短絡を生む。
(世間は零落した場であり、隠された真実は少数の「賢者」によって開示されるというナラティブも、逆張りに加担するだろう。)
(大手メディアから発せられる情報より、SNSを含めた口コミ---しかも又聞き---から得られる情報に説得力を感じてしまうという都市伝説的ナラティブもまた、一種の逆張り的な効果と言える。信頼できる---つまり、同様の陰謀論的傾向をもつ---人やコミュニティから直接入る情報だから、それを信じる。常識的な信憑性よりも、人やコミュニティへの信頼や愛着、そして「直接性」への信頼が勝る。)
(3)不信からくる不安は、世界の徴候に対する過敏さへと通じる。敵は巨大であり、組織化されている。罠は至る所に張り巡らされている。騙されてはならない。故に徴候は丁寧に読み取らなければならない。過剰な免疫反応がアレルギーを引き起こすように、過剰な徴候への注目は、ノイズまでも徴候として拾い、世界を過剰に意味付け、その意味付けがさらなる過剰な意味付けを導き、波状的にひろがり、世界は陰謀に満ちたものとなる(世界が「Deep Dreamの悪夢」のようになる)。
(徴候への過敏さは、時折「意外な正解」をもたらすこともある。過剰な読みのうちの何割かが「正しい」と検証されることによって、読みの過剰さが正当化されてエスカレートする。)
(4)これらのことは、「世界の安定に対する(無意識のうちに働いている)信頼」が崩れているという「地」があるからこそ作動すると思われる。そして、陰謀論的思考の展開が「常識的な感覚」を徐々に摩滅させ、それが「世界の安定への信頼」の崩壊をさらに推し進める。世界の安定性への一定程度の信頼は、陰謀論の回避のために必要だと思われる。ただし、変化の激しい流動化した現在で、それを維持するのは簡単ではない(そもそも、無意識のうちに働いているものなので、意識的にどうしようもない)。そして、このような「世界の安定性への信頼」は、場合によっては正常化バイアスとして作用する。
(陰謀論と正常化バイアスとは対偶の関係にある? 陰謀論を嫌うあまり常識に従いすぎると、今度は、正常化バイアスと思考の停滞、あるいは「諦め(現実主義)」の支配という別の罠が待っている。日本ではむしろ後者の方が根深いのかもしれない。陰謀論とは、一種の「ニヒリズムに対する闘い」ではあるかもしれない。)
付け加えるならば、(5)人の心が元々もっているジャンクなものへと惹かれていく傾向---フロイトなら「死の欲動」と言う?---という要素もあるのかなと思う。(2)における逆張り的な賢者の知は、裏返った崇高としてのジャンクな要素を集めた知となる傾向をもつ(妙な造語を好む言語感覚のジャンク化など)。