2022/06/29

●なんとなくぬるっと『愛と幻想のファシズム』(村上龍)を読み始めてしまった。上巻の半分くらい、全体の四分の一くらいを読んだ。つづけて最後まで読むかどうかはわからない。

この小説は、世界中を国家の域を超えた統一規格の統一システムとすることを目指す巨大コングロマリット「ザ・セブン」と、社会ダーウィニズム的な思想を掲げ、弱者が淘汰される社会を目指すカリスマ、鈴原冬二と彼が率いる政治結社「狩猟社」との闘いの話で、(経済のグローバル化という言葉さえまだ一般的でなかった)八十年代後半の時期に、このような壮大な政治情報小説を構想し、実現しえた村上龍はすげえと、まずは思う(彼がこの前に書いていた小説は、土地成金の二代目レストランオーナーが、テニスと不倫をする話だ)。しかし同時に、「世界ダメな思想辞典」があったら最初の章に取り上げられるような社会ダーウィニズム的な思想を、登場人物だけでなく作家自身も半ば本気で信じちゃっているようなヤバさがあり、かつ、小説としてのクオリティがとても高いため、これを読んだ読者がベタに感情移入してファシズムにハマりかねない危険さがある。

この小説は、日本が歴史上もっとも豊かで、かつ、「一億総中流」とか言われて、経済格差がとても小さかった(と、言われている)時期に、それに対するアンチとして、世界的な経済パニックが起こり、日本もその影響で、景気が最悪になり、失業率も高く、経済格差が歴然と可視化されるような(そして、それに対して政治がまったく対応できない)社会で、危険なカリスマが成り上がっていく様を描いている。つまり、そのような(バブル経済という)文脈の上で、逆張り的な刺激物(毒)として提出されている。だから当時は、距離と余裕を保って接することが出来た。だけど、この小説に描かれる状況とほとんどそっくりに見える現在、改めて読むと、本当にヤバい。小説として優れているからこそヤバい。

今回読んだ最初の四分の一は、まだザ・セブンはあまり出てこなくて、主に、鈴原冬二というカリスマが(経済不安と人々の不満を背景にして)成り上がっていく過程が描かれている。冷静に読めば、カリスマが(カリスマが人々をたんに手段として利用し、搾取していくやり方が、そして、人々がカリスマを希求してしまうことそのものが)いかに危険がということが読み取れるはずだが、村上龍のさえた筆致によって、(ツッコミどころは無限にあるにもかかわらず)カリスマの言動に強い説得力がもたされ、彼が魅力的に見えてしまう。人としての魅力を感じるだけならまだしも、その思想にも多少の理があるかのように見えてきてしまう。つまり、この小説そのものが自ら「カリスマの危険性」を体現してしまっている。八十年代後半という状況下であれば、この「毒」にそれなりの魅力を感じる余裕もあったかもしれないが、今の状況では、これは死に至りかねない毒だろうと思う。

(下手をすると、リバイバルしてベストセラーになりかねないくらい、現状と---状況的にも空気的にも---フィットしてしまっている。お話として面白いだけでなく、普通のエンタメ系の作家には書けないような、細部の充実があるし。)

●当然だが、鈴原冬二の思想(と、カリスマ的な突出)は、小説のなかでも、右派からも左派からも攻撃される。物理的な攻撃もあれば、言論としての批判もある。しかしそれは彼らのダメージにはならない。記者会見の場面で、リベラル派のニュースキャスターと、エコロジー活動家が、鈴原たちからコテンパンにコケにされる(論破される)場面もある。だが、これは八十年代に書かれたという時代的な制約だろうが、彼らの敵としてフェミニズムが出てこない。仮に、現在に鈴原のような存在が台頭してきたとしたら、最も強い論拠をもって彼らを批判し得るのはフェミニズムではないかと思う(理論的にも、政治的にも)。現在を舞台にこの話を書くとしたら、村上龍も、敵としてフェミニストたちを書き入れざるを得ないだろう。そして、村上龍は「勉強する作家」なので、敵としてフェミニズムを勉強するだろう。そしてそれでもなお、鈴原の思想を成立させるとしたら、それはそうたやすいことではないと思う。加えて、人類学的にみて、鈴原の「狩猟思想(原始主義)」は本当に成り立つのか、という疑問も出てくる。フェミニズムや人類学からの批判は、思想の根幹(説得力)への揺さぶりとなるので、右派や左派からの批判のようには簡単にはかわせないだろう。おそらく、八十年代から現在までで、多少でも社会が進歩したと言えるとしたら、その部分ではないか。

とはいえ、「人々の(現状を変えてくれるという幻想をもてる)カリスマへの希求」がそれを軽く上回ってしまうという可能性もある。というか、現状をみれば、その可能性が高いと言わざるを得ない。この小説を読むと、「マジでカリスマはヤバい」とつくづく思うし、本当に強いカリスマが出てきたら、(自分がそれにのっからないことはできても)その熱狂の広がりを止めることは誰にもできないのではないかと思ってしまう。カリスマは「政治の享楽」の宝庫であり、享楽は常に理論に勝つだろうから。

(だからこそ、カリスマが存在できない分散組織について真剣に考える必要がある。すっかり胡散臭い儲け話みたいになってしまっているが、そもそもブロックチェーンを用いた暗号通貨は、中央銀行のいらない通貨として、自律分散組織(DAO)の重要な実験としてあったのだし、今もありつづける。)

(村上龍に基本としてあるのは、日本嫌悪であり、共同体嫌悪であると思う。そこには、現在のリバタリアンエリートのアナーキズムに近い感覚がある。そして、それが現状の批判をこえて強く出過ぎると、「日本」に対する強烈なアンチとして「社会ダーウィニズム」のようなものが出てきてしまうのではないかと思われる。現政権への不信が、逆張りしすぎて陰謀論になってしまうのと似ているかもしれない。しかし村上龍はすぐれた小説家なので、その「陰謀論」がとても魅力的で充実した物語になってしまうから危険なのだ。)

●それでも、小説として優れていることは確かで、この後の、日本のポリティカルフィクション(神山版「攻殻」とか)のお手本のようなものになっているとは思う。「エヴァ」にも鈴原冬二が出てくるし(「エヴァ」はポリティカルと言えないが)。

(注意「お前が不幸でマゾで今オレに無理やりフェラチオさせられているのは、お前が貧乏人の娘でブスで太っているからだ」みたいな文がたくさん出てくるので、昭和のおじさんに耐えられない繊細な若者は読まない方がいいと思う。)