●お知らせ。明日(13日)の東京新聞、夕刊に、国立新美術館の「セザンヌ---パリとプロヴァンス」展の展評が掲載される予定です。
●「新潮」に載っている中沢新一による吉本隆明追悼文がいい。基本的に吉本批判だし、ちゃっかりと中沢新一自身の態度表明となっているのだが、しかしそれこそが正しい追悼ではないかと納得させられる。それに「批判」というのはこういう形で行われる時にだけ意味をもつのだ思う。
吉本隆明の思考(発言)を、ジャーナリスティックな次元や批評家としての次元ではなく、原理的な思想家という次元から読んで、その根拠を丁寧に解読し、その思想の意味、重要性、射程をきちんと記述した上で批判してゆく。吉本隆明による「反・反核」発言は状況論的(機会的)なものではなく彼の思想の一貫性のなかに根拠をもつ。それは彼の思想の根本にある「自然史過程」と「原生的疎外」という概念の関係をきちんと理解しなければ分からない(このテキストは『言語にとって美とは何か』や『心的現象論序説』をちゃんと読もうという気にさせる、本当に読むかは分からないけど)。しかしその一貫性は、あまりに「現実」を無視したものだと言えるのではないか。いや、そうではない。歴史には長期的変化と短期的変化の二層があり、長期的変化について思考する者は、耐え難いほどの出来事が身の回りで起こったとしても、感情に流されることなく、それをいったん捨象して《遠いまなざし》によって思考しなければならない。吉本隆明は最後までそれを貫いたのだ、と。
そしてその上で、「自然史過程」という概念について、それが原発にまで当てはまるのかどうか、あるいは、「自然史過程」という概念を現在の水準から考え直するべきではないかと批判(というより発展的な書き換え)を述べてゆく。《一人の偉大な思想家を追悼するためには、その人の思想を正しく理解しながら、その人を限界づけていた時代のくさびを解いて、その人の思想に秘められていた可能性を新しい地平に開いていくことにこそ、その人にふさわしい敬意の表し方であろうと、私は思った。》
●ところで、中沢新一原発技術への批判は、「核分裂を起こす」技術とそれによって「電気を起こす」技術の間にある「インターフェイス」技術の脆弱さに集中している。この、インターフェイス技術(科学)の脆弱さへの批判は、原発に限らず、中沢新一の「モダン」批判の根本にあるものだと言える(中沢新一はたんに「モダン」ではなくもっと長い歴史的射程で考えていると思うけど、この文脈では「モダン」ということになる)。つまり中沢新一による脱原発もまた、状況論的なものではない。モダンとは要するに、抽象化によって獲得された「第二の自然」を「客観」あるいは「本質」「構造」とする思想だといえる。それによって具象は「主観」あるいは「現象」「出来事」の位置に置かれ、両者は分離する。モダンの思想では、この両者をインターフェイスすることが出来ない、と。つまり、核分裂を起こす(抽象)と電気を起こす(具象)とはうまくつながらない、と。
《なぜ、インターフェイスを設計する思想と技術が、他の分野に比較すると,信じがたいほどの未発達を抱えているのか。この事実ほど、現代の科学技術の発達が「自然史過程」との不一致をあらわにしているものはない。二十世紀のモダン科学の要求は、原子炉に代表される第二の自然を構成する原理を中心に進められてきた。その自然を構成する原理は、生態圏外的な現実に触れているから、具象性を離れて、いきおい抽象的なものになった。》
《そのために、私たちが知っている具体的自然を生成しているアルゴリズムを、モダン科学の重要な道具である数学は、いままで満足のいくような形で記述することができなかった。言い方を変えれば、モダン科学は第一の自然との間に確実なインターフェイスをつくることができなかった。この状況を象徴しているのが、原子力発電技術の構造そのものである。》
《現代の科学は、自己変容をおこしていかなければならない。その兆候を、私たちは科学技術のいろいろな分野でいま起こっている変化の中に、確実に見出すことができる。ここでは非フォン・ノイマン型コンピューターの設計、トポスをめぐるグロタンディークの数学、生命を動かすアルゴリズムの研究などを、上げるだけにとどめておこう。こうした新しい思考がつくりだそうとしているのは、生物や子供がおこなっているごく自然なアルゴリズムや論理思考の注意深い観察をとおして、いままで主流だったハードな計算論理を内側から変容させて、自分を自然とのインターフェイスそのものにしようという試みである。》
《人は猿に戻るために、原発をなくそうとしているのではない。猿もその中で生きている「自然史過程」に合流するためには、科学と技術に新しい地平を開いていかければならないと考えればこそ、原子核技術からの脱却を求めているのだ。》