2022/06/28

●すごく画質が悪い状態だけど、『大いなる幻影』(黒沢清)がYouTubeにあったので久々に見た。1999年、黒沢清がのりにのっていた時期の作品。

この作品の特徴は、最初から最後まで、登場人物がまったく変化しないというところにあると思った。この時期の黒沢清は、基本的に「終わっていく男」の話を撮っていた。社会的、人間的な領域から、非社会的、非人間的な領域へ、境界を越えて一歩踏みだしていってしまう、それによって「人ではないもの」へと変質し、人としては終わっていく。『地獄の警備員』のセリフ、「知りたいか、それを知るには勇気がいるぞ」、つまり、それを知ってしまうことで、後戻りのできないところへと踏み越えてしまう。

しかしこの作品は、変わらなさというか、変われなさこそが主題であるように思った。ここで描かれるのは「終わっていく男」ではなく「終わっていく世界」だ。終わっていく世界で、しかしまだまだ終わることはできなくて、これから先もしばらくは生きていかなければならない若者たちの話だ。彼らにも、終わらせてしまいたい、向こう側へと踏み越えてしまいたいという衝動はあるが、いまひとつのところで踏み越えきれない(この作品の「踏み越える」は二種類あって、一方は暴徒化する、で、もう一方は「消える」だ)。いや、踏み越えきれないというより、土俵際でぎりぎり持ちこたえているというべきか。終わっていく世界の(むき出しの暴力が空き缶のようにそこここに転がっている)荒涼とした空間のなかで、「終わらせてしまいたい衝動」を燻らせながら、破綻と背中合わせの「淡々とした日常」が薄皮一枚の危うさで持続している。

彼らは、終わらせてしまいたい衝動をもつが、同時に、薄皮一枚でなりたっている「人としての生活」を維持しようという意思もある。武田真治唯野未歩子カップルには、何度か決裂の危機が訪れるが、そのたびになんとか持ちこたえる。二人の関係は惰性でつづいているのではなく、維持させようという意思によって維持されている。危機は、意思によって回避されるのだ。この、二人の関係を維持していこうという意思のみが、終わっていく世界のなかで、二人を「人」の領域にとどめている。

彼らには、関係を維持しようという意思はあるが、展望や希望や未来はない。世界は終わっていき、状況は日増しに悪くなっていく。それが、彼らの生きる「環境」である限り、「前向きに進んでいく」ことはありえない(彼らは二人とも、それぞれが、生殖機能を失う恐れのある薬を積極的に服用する、子どもをつくるという「生産的」行為ははじめから考えられない)。踏みとどまるか、踏み越えてしまうかの二択しかない。この映画の登場人物が「変化しない」のは、彼らのいる状況で「変化」とは「踏み越え」としてしかありえないからだ。そして、いつまでも踏みとどまりつづけられるという保証はまったくない。

とりあえず大きな危機は回避され、二人の関係は回復された。しかし、これから先の展望は全く何もない。そのことを端的に示している、ラストカットの二人の表情…。

●今回、とてもひどい画質(時々人の顔が幽霊のように潰れてしまう)で観たのだが、黒沢清の映画で一番好きかもしれないとまで思った。終盤30分くらいの展開は、ちょっと「黒沢清の手癖」感を感じてしまったが、最初の一時間はすばらしかった。