●huluで『カリスマ』(黒沢清)を観た。久々に観たのだが、思っていた以上に面白かった。1999年公開だから、もう二十年前の映画だ(「偽日記」も1999年からはじまっているのだが)。
ぼくが黒沢清に最も熱狂していたのは97年から99年くらいの時期で(もちろん八十年代からずっと持続的に強い関心をもっていたのだが)---あくまでぼくにとっての、だが---黒沢清絶頂期の最後くらいに当たる作品。古い企画が復活したという作品なので(『地獄の警備員』くらいの)初期の黒沢清の要素と、Vシネマ量産時代以降の黒沢清の要素が混じっていつつ、初期やVシネマ期を自ら解体しているような感じもある。
『カリスマ』は100分ちょっと映画だが、最初の70分くらいは、中心的な問題があり、その問題に対する態度の違いによる各陣営の対立がある、という形で進んでいく。しかし最後の30分は、その問題が消えてしまった後というか、そもそも問題は偽の問題に過ぎなかったかもしれず、問題が消えてしまえば、問題を問題として支えていた基盤のようなものこそ成り立たなくなってしまうという様が描かれる(カリスマの木は、ある意味で「父の名」のようなものだ)。それにより、対立していたどの陣営も、どの人物も、方向を失って狂っていくという展開になる。この映画には、問題と対立があり、問題の崩壊にともなう対立の崩壊があり、問題と対立の崩壊にともなう各陣営のアイデンティティの崩壊があるばかりで、解決や結論というものがない。秩序は壊れ混乱し、対立による均衡でギリギリに抑えられていた暴力と死が、にじみ出るように至る所に蔓延し出す。
そんななか役所広司が、一人勝手に、まったく何の根拠のない新たな問題をたちあげる。彼こそが、新たな世界のありようの指針を示してくれるのではないかと期待する人もいるが、彼の行為からは根拠も意味も共同性も何も見いだせないので、誰も彼の行為を理解できず、結局は彼のもとを去る。だが彼は理解されなくても意に介さずに、無意味としか思えない行為を淡々とつづける。だが、そうしているうちに何故か、彼の無根拠な行為に、周りの人々の方が、勝手に根拠を付与しはじめる。そしてそこにまた、縮小再生産された対立の構図が生まれそうになると、役所広司はそれをあっさり破壊する。だから秩序は与えられず、誰も依って立つ場所を見いだせない。
この映画では一番最初に、「世界の法則を回復せよ」という呪文のような言葉が与えられる。この言葉は、『地獄の警備員』における「知りたいか、それを知るには勇気がいるぞ(うろ憶え)」と同様、映画そのものを縛ってしまうほどに強いフレーズとしてあるだろう。しかし『カリスマ』においてこのフレーズは、解体され、無力化されてしまうものとしてある。
そもそもこのフレーズは正確とは言えない。「世界の秩序(あるいは規則)を回復せよ」ならば分かるが、「法則(少なくとも自然法則)」は、瓦解したり、失われたりしないし、よって回復されることもないものだ。世界(宇宙)は、法則の上にのって存在しており、法則の外に出ることは原理上できない。秩序や規則であれば、崩壊したり回復されたりもするが、法則(自然法則)とは、誰がどうあがいても常に正確に作動してしまうもののことだろう。なので、「知りたいか、それを知るには勇気がいるぞ」は、映画を決定づける決めフレーズになり得るとしても、「世界の法則を回復せよ」は、適切ではないことによって決めフレーズたり得ない。役所広司はおそらく、映画の最初の70分の展開のなかでそのことに気づいたのだろう。彼の口から出る「あるがまま」という言葉は、「法則」は常に正確に作動し、誰もその外に出ることができない(故に、「回復する」こともできない)という事実を意味しているだろう。彼の視点や行為は、人間たちの秩序や規則や倫理の外にある「法則」の側からのものとなっている。
(自由も服従も「人間的価値」であって「法則」ではない。対立構図を成立させるための共通の人間的基盤がなければ、対立---違い---の根拠となる「(依って立つ)価値」が成り立たないので、「あるがまま」とするしかなくなる。)
(破壊された二番目のカリスマの木の残骸から新芽が出ていることもまた「法則」の側の出来事であり、「価値」の側の出来事ではない、と、役所広司は考えるだろう。)
法則は善悪の彼岸にあり、役所広司はその位置から世界を見ている。しかし、映画はここで終わるのではない。対立構図の縮小再生産を避けるために松重豊を銃で撃った役所広司は、彼をそのまま死なせることなく、応急処置をして病院まで運び、生きさせようとする。これは彼の意思であり、最低限の倫理だ。法則の世界から倫理の世界へ、「あるがまま」の世界から「人間的価値」の世界へ、役所広司も結局は戻ってこざるを得ないのだ。
しかし、森のなかでの対立構図が崩れてしまった後、一体「何処」に戻ればいいのか。戻る場所は自明ではない。それどころか、彼には戻る場所など何処にもないからずっと森にいたのだし、戻ろうとしている先は何故か焼け野原になってさえいる。だからこの映画には結論も解決もない。森のなかで善悪の彼岸に位置に達し、「怪物」と化したかもしれない役所広司もまた、人間の世界へ「戻ろうとする」ほかないのだ。しかし、戻ろうとしたからといって、戻れるとは限らないし、戻る場所があるとも限らない。
既に戻るべき場所などありはしないのに、それでも戻ろうとする意思(松重豊を生かそうとする意思)によって行動すること。この根拠のない意思こそが役所広司の(「あるがまま」ではない、人間的な)狂気であり、彼はこの狂気によって(他の人たちが陥っている狂気である)混乱を免れているとも言える。でもこれは、解決とは言えないし、出口もない。