長谷敏司の短編集『My Humanity』から「地には豊穣」と「allo,toi,toi」を読んだ。「地には豊穣」はそこそこという感じだったけど、「allo,toi,toi」はとても面白かった。
ここに記述されていることが科学的にどの程度正確なのかは分からないけど、脳のなかで経験が構成される時のメカニズムの記述と、人物の内面の描出とが、シームレスな形で連続し、協働しているところが面白かった。脳の原始的な判断システムによって生まれる「好き」という感情と、それを上位から制御し解釈する「文化」や「言語」というそれとは異なるシステムの間の、関係、協働、齟齬を記述しつつ、それが人物の内面をどう形作り、どのような過程を経て変化してゆくのかが記述される(主人公は小児性愛者で、子供を暴行して殺して刑務所に服役しており、他の服役者から軽蔑され恒常的に暴力を受けている)。これは、文学的、人間的な内面や内省の描出ではないし、かといって、文学性や人間性の(機械的カニズムへの)解体でもない。ここにあるのは、人間に関するあたらしい記述のあり様の追究であり、その記述によって浮かび上がる、人間というものに対するあたらしい認識の形の模索であるように思われる。
欲望、性愛、暴力という、あまりに人間的で文学的な主題を、今までになされてきた人間や文学という認識(形式)とは別の形をもったものとして構成し直そうとしているように思われた。物語としては、犯罪者が自分のした事の意味を考えようとするというありふれたものとも言えるが、その「内省」がいわゆる内省とは違った形で組み立てられる。
だからこそ、ここに書かれていることを正確に読み取るのはかなり難しい。この小説は、ちょっと新しいギミックを使った古典的で内面的な物語として読もうとすれば読めてしまうし、ある種の言語批判や社会制度批判のようなものとして(生身の欲求を言語が抑圧し制度が変形させている的に)安易に読んでしまうことも出来る。そうではなく、そのような認識とは「別の認識の形(複数のシステムの協働と齟齬が結果として一つの内面であるかのように作動している)」をつくろうとしているのだと思う。
(この小説にはある種の社会的な傾向に対する批判が確かに含まれているが、この批判が妥当であるかどうかは、ここで示される「人間に対するあたらしい認識の形」が妥当であるかどうかにかかっている。)
人間自身は、現生人類が生まれたおそらく十万年以上前からほとんど変わっていない。しかし人間は、自らが住む環境を大きく変化させ、世界と自分自身に対する認識を大きく変化させてきた。人間はずっと人間のままであるが、人間とは何かという自己言及的認識は大きく変化し、その自分自身に対する視線によって、根本は変化していないままで変化を強いられているとも言える。そういった意味で、人間はまったく変わらないままでまったく違う者になりつつある。そういう感じが書かれていると思った。
長谷敏司の小説はハードSFというよりへヴィーSFという感じ。
脳内に侵入させたナノロボットがつくり出す疑似神経接続によって人の脳のなかに直接「経験」を送り込むというギミック「ITP」の使い方だけをみれば、『あなたのための物語』より、こちらの方が突っ込んだ感じで面白いんじゃないかと思った。
●下永聖高の短編集『オニキス』から表題作だけ読んだ。こちらはぼくには面白いとは思えなかった。「シュタインズゲート」的なネタを甘ったるい感傷で薄めて書き直したみたいにしか思えなかった。ぼくはどうしても、薄らとした甘い感傷で流してゆく感じの小説が受け入れられない(代表的なのが村上春樹だと思うけど)。「失われた恋人への郷愁」みたいな要素を入れとけばなんとなく場がもつ、みたいのはどうなの?、と感じてしまう。アイデアはまあまあ面白いとして、その可能性があまり展開されているとは思えないし、キャラや個々の場面のイメージも凡庸だと思われた。細部やイメージがもっと際立っていれば印象が違ったかもしれないけど。