2019-08-14

U-NEXTにあったのを見つけて、加藤泰の『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966)を観た。かっこ良かったし、「映画」だった。

もぬけの殻になった部屋によって池内淳子と息子が突然姿を消したことを示し、その後に一年の時間経過を示す雪の降る短いカットが挟まって、その次にくる、一人残された中村錦之助がどこかの宿屋で一人で飲んだくれているフィックスの長回しの場面(この映画ではじめて中村錦之助が「弱み」をみせる場面)を観て、うーん渋いなあと思い、(最近の映画をあまり観ていないので分からないのだが)今でもこんな「映画」っぽい演出をする映画作家はいるのだろうか、と思った。タランティーノとかがやっているのだろうか。

(形式としては全然違うのだが、空気感として『セーラー服と機関銃』を途中で何度か思い出した。)

加藤泰を熱心に観ていたのはもう三十年くらい前のことだと思うが、自分が思いの外影響を受けていることを感じた。自分が普段、物を観ている見方の多くが、加藤泰フレーミングやカット割りからきているのだなあ、と。

任侠映画というのは悲劇の大衆化した形式だと思うのだけど、多くの人に「共感」をもって受け入れられる人の内面のあり方というのは社会のモードによって大きく変わるので、この映画に出てくる登場人物たちの「心情」を自然に受け入れ、共感できるような人はどんどん減っているのではないかと思う。

(この物語を自然に受け入れられる人は「近代的な内面」とはほど遠い人だろう。普通は、「一宿一飯の恩義」って何だよ、ということになると思う。でも、その心情が分からないと「悲劇」が作動しない。)

ぼくとしても、この映画ではあまりに人の命が軽く、次々と簡単に人が死んでいくのに物語がそれに無頓着なようにどんどんすすむので、そのことに対してかなりの抵抗を感じているのに気づいた(昔観た時は、たんにそういう「形式」なのだと思って流して、そんなことは感じなかった)。ヤクザ者に限らず、人々の気がとても荒いようにみえるし、死に対してとても淡泊であるようにみえる。これは時代の変化なのか、それともぼくの心が弱っているということなのか。

(確かに、昔の人は今の人よりも気が荒かったように思う。)

(これが、完全に非人間的なモードで進む映画ならそういうものとして観られるが、多くの人が簡単に死んでいく一方、中村錦之助池内淳子には心情が乗るような話になっているので、そこにギャップを感じてしまう。)

心情や内面や共感のモードが、時代とともに大きく変化していくのに比べ、視覚的な強さや空間認識への感覚はほとんど変わっていなくて、今でも新鮮だし、とてもすばらしいと感じた。

(時間---物語が進行する時間---の感覚にかんしては、心情や共感ほどではないにしても、多少違いがでてきているのかもしれないと感じた。)