2021-03-28

●(昨日からつづく)『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(鴻池留衣)では、「最後の自粛」と同様に陰謀論的な世界が展開される。陰謀論には出来事のスケール感や距離感の失調があり、ごく身近で起るちいさな出来事が、そのまま世界を動かす大きな組織の陰謀(の徴候)と短絡される。さらに、この小説ではフェイクと現実の反転がみられ、虚構的に組み立てられた設定が、反射するように、押印するように、現実世界の側に刻まれて世界の側に影響を与える。どちらがどちらか分からなくなる。もう一つ重要なのが、この小説の本文が、複数の人がそれぞれの思惑で書き込み、書き加え、書き換えることが可能なウィキペディアという場を支持体にしていること。統一された書き手(語り手)は保証されず、全体を通した意図やパースペクティブが存在できないし、いつまでたってもフィックスせず、完成が訪れない。今読んでいるこの「小説」は、どこまでも流動的な時間変化のなかの、ある一地点でのスナップショットでしかない。

一人の男が、存在しないはずのバンドのコピーバンドをはじめる。オリジナルのバンドは架空のものなので、それが存在した痕跡は現実上にはない。しかし、いかに無名だったとはいえ、メジャーなレーベルから複数のアルバムを出し、海外ツアーも行った(という設定の)バンドが存在した痕跡をまったく残していないというのは(フィクションの設定としても)不自然だ。そこで、そのバンドは実はCIAのスパイであり、主に社会主義圏でツアーを行ったのは諜報活動のためで、そして、冷戦終結後に、バンドのメンバーもバンドが存在した痕跡もあわせて組織から抹殺された、という設定が付け加えられる(バンドのリーダーは、オリジナルメンバーの息子で、家にたまたま残っていたテープで演奏を聴き、耳で憶えていた)。バンドの演奏はオリジナルの演奏の再現のみをめざし、活動は、(権力によって無いものとされた)オリジナルのバンドの記憶をもつ人を探す(痕跡を掘り起こす)ために行われる。これらはあくまで設定であり、バンドのメンバーもそのファンも、その嘘を嘘として、信じているフリを共有している。

だが後半になると、フェイクであるはずのこの「設定」が現実としてメンバーに襲いかかることになる。オリジナルのバンドの存在の痕跡となりえるものはあらわれてはいけなかったのだ。彼らは、いくつもの巨大な組織間の抗争に巻き込まれ、(その利害により)命をねらわれたり、救われたりする(陰謀論的巨大組織は、まるで「涼宮ハルヒシリーズ」の、超能力者、未来人、宇宙人のようにして彼らの前にあらわれる)。これ以降の展開では「現実らしさ」という意味でのリアリティの尺度はどんどん崩れていく。あまりに非現実的で、ツギハギ的で統一感を欠き、ご都合主義的で、紋切り型ですらあるので、通常「フィクション(物語)」がこんな展開をみせるはずがない、という展開をみせる(失調した世界は、みたこともないほど突飛な世界というより、おどろくほど貧しい想像力によって描かれたような紋切り型過ぎる世界だ)。上手なストーリーテラーは決してこのような展開はつくらない。たんに内容的に非現実的であるだけでなく、その記述や流れは、常識的な意味での世界との適切な距離、世界の連続性、世界の手触り感などが失調している。しかしこの、パースペクティブが崩落し、リアルの底が抜けて平板化していく感覚には、ある否定しがたいリアリティが感じられるし、とても強い面白さが感じられる。

(このリアリティや面白味は、実際に我々が「陰謀論」にやられてしまって常識的パースペクティブを失う時に作動するものと似ているのかもしれない。その意味でとても危険なものだろう。陰謀論は今、我々のあまりに身近に迫ってあり、ウイルスのようなその蔓延により、人の思考や社会のあり様が破壊されてしまうのではないかという恐怖を感じている。この恐怖もまた、この作品のリアリティの裏で作用するだろう。)

たとえば、阿部和重だったら(あるいはピンチョンだったら)、このような陰謀論的世界を精密に設計、構築して、大長編化するのかもしれない。しかしここでは、世界を精密に設計する働きこそが失調しているように思われる。パラノイア的な世界構築の意図が、何度も立ち上がっては、その都度不発に終わって、穴のあいた風船のように、きわめてチャチな着地点にぷしゅーっと墜ちる、という出来事が起っているように感じた。ここには、失調と不発のリアリティがあるのではないか。

●以下、追記。

『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』の後半の展開は「ピザゲート」並みの薄っぺらな想像力だからこそ(破壊的に・恐怖を伴った)リアルなのだ、という感触は、ぼくにとってはかなり強いリアリティなのだが(実際に「ピザゲート」を信じてしまう人が少なからずいるのだ)、どのくらいの人に共有されるものなのかは分からない。思考を内側から瓦解させるかもしれないウイルスとしての陰謀論的リアリティ。

この小説の本文は、たんに一人の狂った人が妄想を書き込んだだけかもしれないし、互いに無関係な複数に人物による共同的な創作なのかもしれないし、複数の(もしかするとかなり多数の)人々によって共有・同調された狂気(妄想)の産物なのかもしれないし、本来隠されるべき世界の秘密(陰謀)の漏洩なのかもしれない。語り手が単数であるのか、複数であるのかさえも確定できないという不安定さが重要で、あからさまに雑多で複数的であるわけではないということがミソだと思う。。