●陰謀論がとても気になっている。
うろ覚えの記憶だが、昔、柄谷行人がフロイトの言葉として書いていたことがある。理性の声は小さいが、それは飽くことなく語りつづけるので、人は結果としてその声を受け入れざるを得なくなる、と。
しかしこれは、実は逆ではないかという疑いが頭から離れない。理性のある人は陰謀論のあまりの幼稚さを軽蔑し、にべもなく否定して退けるが、いくら否定され削除されたとしても、陰謀論者は飽くことなくデマを生産しつづけるので(なにしろそれは粗悪品なのでいくらでも生産できる)、やがて、その執拗さに嫌気がさし、その粗悪さに耐えられなくなった理性の方が乱され、壊れてしまう、と。
陰謀論者は、人類が築いてきたものを瓦解させる享楽に酔っているようにみえる。そして、そのような享楽に理性が勝てる気がしない。
(陰謀論の側にまわった方が、楽だし、楽しそう。少なくとも、そのデマのあまりの粗雑さに対していちいち湧いて出てくる嫌悪---なんとも言えない苦い感情---を感じなくてもよくなる。)
(いや、「粗雑さ」という言い方もまた粗雑過ぎる。ぼくはもともと「陰謀論的フィクション」が大好物だ。それはある種の人に脳にとって、とても心地のよい形でフィットする。それは、否定しがたいリアリティを匂わせる。だからこそ、それを容易に「現実(他者)」に適応することに対して、危険と嫌悪を強く感じるのだ。)
(このような懸念自体が、的外れで「陰謀論」的な杞憂=妄想であればいいのだが。)
●負けた方の大統領が、その支持者たちを引き連れて、国のなかにもう一つの国をたちあげ、もう一人の大統領となる。そして、もう一人の大統領とその国民たちは、次の選挙がくるまでずっと、「あの選挙は不正だった」と言い続ける。そうすれば、(少なくとも、もう一人の大統領とその国民たちにとっては)選挙に負けたという「現実」をなかったことにできる。これを、理性によって否定することはできるのだろうか。
(これもまた、陰謀論的な妄想だが。)
あるいは、ただたんに、「不正があったことを証明することはできないが、私は不正があったと強く信じている」というメッセージを執拗に発し続けるだけで、「現実(への信頼)」を簡単に瓦解させる(少なくとも混乱させる)ことができる。
(キリストを信じる根拠は何もないが、それでも私は信仰する、これこそが、純粋な信仰であり、魂の自由である---「根拠があるから信仰する」というのではたんに因果律に従っているにすぎないから自由ではない---という論法を、論理的に覆すことは困難だ、というのと似ている…、のか。)