●『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン)、最後まで読んだ。以下、ネタバレあります。
全体としてとても常識的な話で、結末の付け方も常識的なものだった。そしておそらく現時点では、このような常識こそが正しい(というか、妥当)なのだろうと思わせる説得力がある。小説の第二部は、2027年から2028年が舞台で、だからあと十年やそこらは、まだまだ「常識」が有効であり、それを軽くみるといろいろ間違えるぞ、というところだろうか。
冒頭に、多量のLPレコードを急いでデジタルに変換したことによる失敗のエピソードがあって、これが本当に凡庸な、面白くもない(よく言われているような)エピソードで、なぜこんな冴えないエピソードを頭にもってきたのかと思っていたのだけど、結果的に、まさにこのエピソードこそが全体を要約している感じになった。これをつまらないエピソードだと思う奴は浮ついていて、そんなことだとテクノロジーのリアルに足元をすくわれるぞ、とでも言う感じ。
(他でもない、あのイーガンが、このような凡庸なエピソードから語り出すことの意味を考えなければいけなかった。人々が納得しやすい物語の予定調和的な終着点として「常識」に着地するのではない、この長編全体が語られることによって、最初に凡庸だと思われたエピソードの重要性が納得されるという意味で、長い旅の結果として常識が戻ってくる。)
(マーティンとオマールの最後の会話など、この場面のみを見れば凡庸なのだけど、この小説のこの部分に置かれることで、「あー、結局はそういうことなんだよなあ」という説得力が生まれる。)
もう一つ、ちょっとしたネタのようになにげなく語られるけど重要なエピソードに、長い小説を圧縮する技術というのがある。メルヴィルやプルーストのやたらと長い小説を、読者の印象を変えることなく、どの単語を割愛できるのかをはじき出すアルゴリズム。長い時間をかけて読んだのと同じ経験をもたらす、二時間で読める小説を、圧縮によってつくる。ここで重要なのは、要約やあらすじ、あるいは超訳というような「内容」のレベルが問題になっているのではなく、「ほぼ同じ経験」が得られるという「経験」のレベルが問題になっている。これは(小説内で)実現された技術ではなく、科学者たちのランチ時の冗談として語られる。
このエピソードは、まさにこの小説全体として否定される。内容は割愛し、要約することが出来るが、経験というのは割愛できない。これも「答え」としては常識的なものだが、その常識は、未来において、その経験の総体の「どの部分」が効いてくるのかを事前に知ることは出来ないから、経験のどの部分を「空白」にしてよいかということを事前に決めることはできない、という理屈で導かれる。脳の中途半端なコピーは、想定内の状況においては「その人らしく」振る舞うことが出来るが、想定外の状況ではそうとは言えない。圧縮した時に差し引いた「どの空白」が効いてくるのか分からない。
だから、コピーするのなら完璧にしなければいけない。あらかじめ「空白」を含んだ中途半端な魂を生産して、(空白を含まない人間が)それを奴隷のように使うことは許されないと主張する人物(集団)も登場する。中途半端な神がつくる、中途半端な魂は許されない、と。この主張は逆に言えば、完璧なコピーが可能ならば、それもアリだという結論を導く。
(現時点で、最も低いコストで人間=魂を完璧にコピーする技術は、結局、普通に子供をつくり、今ある社会や文化のなかで育てることだ、という「常識」が回帰する。)
一方で、この「常識」は普遍的なものとは言えず、テクノロジー的な条件は刻々と変化しており、次の世代ではどうなっているか分からないということが描かれていとも言える。だが、それは逆から言えば、「我々の世代」は、好むと好まざるとにかかわらず、「この常識」を生きて、そのなかで死んでゆくしかないでしょう、ということでもある。登場人物の一人のキャブランは、自身の難病の治療可能性を未来に賭けて、冷凍睡眠に入ることを決意する。今ある「この常識」から離脱しようとするのならば、その程度の「非常識」な決断が必要になる(キャブランは、カーツワイルを戯画化したような人物だ)。
我々のすべきことは、現実の生活としてはまだまだ常識を尊重しつつ、しかしそれが有効ではなくなるそう遠くはない未来に向けで、様々な思考実験を行っておくことだ、ととることもできる。それはあくまで思考実験であり「真理」ではない。そこを忘れるな、と。どの思考実験が未来において効いてくるかは、現時点では分からない。
(フィクションには、「真理」を語るのでも、「常識」を諭すのでもないこと、「思考実験の場」となることが出来るという機能があり、それが重要なのだ、とも言える。思考実験は――科学とも哲学とも物語とも違って――真理や常識を根拠とする必要がない。それがイーガンの他の諸々の作品群なのだ、とも言える。)
●全体としてとても面白かったのだけど、「ゼンデギ」内で行われる(『シャーナーメ』に基づく)ゲーム場面の描写が、ぼくにはやや退屈で、そこだけは読むのが少し苦痛だった。
この小説は、いわゆるヴァーチャルな経験に対して懐疑的ではあるが、一方、ゲームの場面によって、子供はフィクションとしての経験のなかで育ってゆくという側面も描かれている。VRを否定しているわけではないが、でもそれは、絵本の読み聞かせのようなものと、それほど違わない、という感じ。VR的な臨場感のようなレベルでのリアルさはあまり重視されずに、「内容」とも「(リアルな)経験」とも違う、「物語」の経験というレベルがあり、それが重要なのだ、と。これもまた常識的な見解ではある。この小説では、この部分(このような「常識」を説得する部分)がおそらく弱い。
●ぼくは一昨日の日記で、この小説を半分だけ読んだ状態で感想を書いた。それは意識的にやっていることで、最後まで読んで、作品として完結した状態を知ってしまうと、途中の段階で考えたり感じたりしたいろいろなことが、完成形との整合性によって抑圧されてしまう。つまり、最後まで読んでからだと、一昨日のよう感想は書けなくなる。「間違った感想」を持てなくなる(忘れてしまう)。往々にして、途中まで読んで書いた感想の方が面白い。