●いまさらながら『アバター』をブルーレイで観たのだけど、これは(もう既に散々言われたことかもしれないけど)「ゴッホが油絵具で模写した浮世絵」みたいな感じで、ハリウッドのVFX技術によって模写された日本アニメと言うべき映画だった。この二つは、(1)あきらかに模写であり、(2)しかし、根本的なところで何かが決定的に食い違っていて、そして重要なのは、(3)作品としての良し悪しとは別にメディウムの問題として、木版画(アニメ)と油絵(ハリウッドVFX)では、油絵(ハリウッドVFX)の方が感覚に対する作用(効果)が圧倒的に強い、という三つの意味でパラレルだと言える。
アバター』は、物語がびっくりする程紋切り型で退屈だし(物語が紋切り型なのは、そうでなければ多くの観客から受け入れられない――少なくとも製作者たちはそう考えている――からだろう)、作品としては、例えば宮崎駿の諸作品などとは比べることもできない(宮崎駿が複雑な物語を語れるのは、日本の観客が複雑さを理解しなくても柔軟にそのまま受け入れる――そもそも物語にそれほど興味はなくキャラに感情移入できればよい――という傾向があるからではないか)。しかし同時に、『アバター』には「作品としての良し悪しになど何の意味があるのか」と思ってしまうくらいの、(昨日も書いたけど) 没入的臨場感のリアリズムの圧倒的な力がある。単純に、観ていてすごく楽しい。何でこんなに楽しいのか不可解なくらい楽しい。
アバター』がすごいのは物語としてでも作品としてでもなく、世界の作り込みの解像度としてであって、そこにはキャラ萌えとは別のベクトルをもつ「世界萌え」のような欲望があるように思われる。とはいえ、これは物語が紋切り型であることとも深く絡んでくると思うのだが、世界の作り込みは確かにすごいけど、そこで構築される世界は我々の世界観を揺るがすようなものではない。奇異で、鮮やかで、珍しいことが次々起こるけど、でも、実はそれらは既にすべて知っていることばかりだ、というような(それが「作品としてはつまらない」ということで、物語としては観客に受け入れられるような単純なものにするとしても、世界観としてはもっと面白くできるのではないか、とも思う)。
例えば『攻殻機動隊』がすごいのは、我々が無意識に前提としている世界観を大きく揺るがすような(それでいて「あり得るかもしれない」と思わせる)世界が構築されていたからだし、ぼくは『ブレードランナー』は映画としてはまったく下らないと思うけど、それでもいくつかの風景カットと美術において我々のもつ世界観を大きく揺るがすことでインパクトをもつ作品だった。『アバター』にはそれはまるでなくて、しかしそのかわりに、細部の精度と没入的な臨場感が圧倒的にすごい。
それは、世界観の揺らぎなどなくても、既に知っていることを臨場感をもって体験させられる(妄想をリアルに補強してくれる、ということだろう)だけで、人はけっこう満足してしまうのかもしれないという感触だ。この時「感覚の精度(強さ)=リアリズム(臨場感)」が、紋切り型でしかない世界観に説得力を付与しているといえる。ここで世界観とは、ラカン的な意味での幻想であり、つまり大他者の欲望に対する主体の関係のあり様を安定させるもので、ざっくり言えば、「わたし」が世界と関係する時の(意識的、無意識的な)「作法」が間違っていないことを保証してくれるものと言っていいだろう。要するに『アバター』では、感覚の精度の高さが紋切り型の世界観に奉仕することで「君は間違っていない」というメッセージとなり、それが自己肯定感に繋がる。だからこそ、観ていてこんなに楽しいのだろう。
そう考えると、『アバター』のようなものが普通になった後に(世界観の揺さぶりとしての)作品などあり得るのか、という気持ちにもなる。勿論、ぼくとしては「作品」というもののもつ意味を信じたいけど、しかしそれはけっして楽観的に(当然のことのように)信じられるというものではなくなっている。
(このように感じることそこが、ぼくにとっては「世界観の揺らぎ」となるのだが…)