●昨日のトークショーでの樫村さんの発言のメモをもうちょっと。認識の底上げと転移の不能と自由意思(能動性)についての例。
例えば、上司が嫌な奴で会社に行きたくないという状況があり、しかし実際問題として、行かなければクビになるので、行かないわけにはいかない、ということを私は知っている。この時、「行かないわけにはいかない」こと、行かなかった時にやってくる不利な結果を知りつつも、あえて「行かない」ことを選択することがあり得るという可能性がある、という点においてのみ、自由意思が確保される。例えば、もうどうしても嫌で会社に行けなくなってしまうというのは病気(あるいは自然)だから、自由意思ではない。そこで、駅まで行って、あえて会社とは逆向きの電車に乗るという能動的行為(の可能性)が生じるには、それをうながすモデルが絶対に必要であり、そのモデルこそが転移の対象である。例えば、「盗んだバイクで走り出す」反逆のロックスターとか(この例は今ぼくがいい加減に思いついたもので、樫村さんが挙げたものではない、念のため)。しかし、情報量の増大と認識の底上げによって、このロックスターが実はたんに普通のかよわいお兄ちゃんでしかないことが知られてしまえば、そこで転移は起こらず、私に会社とは逆向きの電車に乗せる能動的な力(能動的な力への幻想=自由意思)は生じない。人は、まったく理解も共感も出来ない者には転移しないが、完全に分かり切った(分かり切ったように見えてしまう)者にも転移しない。共感と共に、理解しきれない謎や、自分は知らないが彼は知っていると思われる知や力や魅力の存在が感じられる相手に転移する。しかし、情報の増大と認識の底上げによって謎-幻想の部分がとっぱらわれてしまうと、転移は一時的なものとなり、持続せす、人はそこから能動に至るだけの力を供給し蓄積できなくなる。つまり、能動に至る力の蓄積の供給源として、転移が必要なのだということになる。(昨日の話で樫村さんが、鈍い人だからこそ、カントやヘーゲルの研究なんかを一生やってられるんだ、というような発言をしていたけど、しかしまさにその「鈍さ」によってこそ、転移の持続が保証され、そこから力が供給されるという側面もある。だからこの、知の増大と転移の不能という話もまた幾分かは、あまりにも「鈍く」なさすぎる、樫村さん自身の表現でもあると思うのだが。)
父=転移の対象の不在と、それによる能動的行為の消失が、主体を恐怖症的な場所に留め起き、世界を見る視覚が世界から分離されて(私に固有の)身体を立ち上げることが拒否されたままで(つまり性的に不能なままの)男性が、自らの身体を世界の外に置こうとするヒステリー的な女性の「美」に魅惑されたままフリーズする、というのが樫村さんの書いた楳図かずお論の骨子であるけど、これこそが、昨日の日記で書いた「世界そのものが外傷化する」ということの一つの例であると思う。そこでは、世界そのものと同時に、誕生という根源的な外傷が繰り返し何度も、新たに立ち上がる。
さらに認識が進めば、ある日は、会社行きの電車に乗る率が90%で、逆向きの電車に思わず乗ってしまう率が10%くらいだが、別の日は、会社行き率60%、逆向き率40%でけっこう危うい、という、その日その日の状況による確率の分布があるだけで、実際にどちらの電車に乗るのかは、電車がホームに入ってくる瞬間まで決定できない、という形で人が生きているのだという認識になる。その時にどちらに乗るのかは、意思による決定ではなく、仕事の予定から体調や天候まで、様々な要因が重なった可能性という下地の上で、その場その場で起こる偶然でしかない、ということになる。実際、このような、因果関係の設定や能動-受動の切り分けが無効化する感覚は、現代を生きている我々にはとても親しい感情であると言えるだろうと思う。ぼくは、このような感覚自体はとても清々しく、好ましいように思われる。だがそこで問題なのは、それでもなお我々はまだ幾分かは(というか充分以上に)神経症的主体であり、神経症的外傷をもってしまっているとしたら、という点にあり(だからこそ非常に下らない「物語」が必要とされ、それが力をもってしまう)、確率論的な世界のなかで、それをどう処理し得るのかということだと思ったことから、ぼくの昨日の質問が出たのだが。
●樫村さんの楳図論には、人が力そのものへと転移する瞬間を変身-輪廻として、非常に魅力的に描いた描写があるので引用する。
《男の子は馬になり、鳥になり、父親になる。目から馬が入り、鳥が入り、父親が入り、彼の筋肉と力となる。その流れが阻害された時、筋肉は躍動の方向と形を失い、対象のない、強迫行為へと退行し、視覚は恐怖症の場所となり、声は禁止と威嚇だけを語り出す。》
《とりわけ重要なのは、人は耳から狼になるのか、目から狼になるのか、口から狼になるのか、鼻から狼になるのか、爪から狼になるのか、ということだ。「マッツェーリは人間であり、狼である」という時、その言葉が耳から入り、考えを支配する力をもつのか。眼前の狼の姿の恐怖と躍動の感覚が、目から入り人間の表皮を突き破るほど大きくなるのか。あるいは子羊の生肉を噛みちぎった時、狼だったことを思い出すのか。さらには血の匂いがそうさせるのか。しかし、てんかんヒステリー的に剥奪されるのでなく、とりあえず自らの意思において変身が可能になるには、目から入る姿が、恐怖を凌駕する躍動、恐怖そのものである躍動を与えることが必要だ。その躍動、快楽が、耳から入る言葉と共犯する時、変身は輪廻に昇華する。》