08/04/07

●お知らせ。「群像」5月号に、ぼくの書いた「踏みとどまる《膝》/古井由吉『白暗淵』論」という文章と、あともうひとつ、ReviewArtというコーナーで「「日本近代絵画」と熊谷守一」という文章が載っています。興味のある方は読んでみて下さい。ReviewArtは、今月も含め、三ヶ月つづく予定です。(目次の名前の配列をみると、ぼくが四人の女性作家に取り囲まれて、吊るし上げをくって、しょぼんと小さくなっているみたいに見えて、情けなくていい感じです。)
●しかし、本当に読むべきなのはぼくの文章ではなく、「文藝」夏号に載っている磯崎憲一郎の新作「眼と太陽」だと思う。『肝心の子供』というすごい傑作の次の第二作で、相当のプレッシャーがあるんじゃないかと思ったのだけど、そんな力みなど感じさせずに、私はこれからも淡々と書いていきます、みたいな大人な対応の二作目で、しかもとても面白い。(この小説に関しては、ネタバレしない方がいいように思うので、「文藝」が出たばかりの今の時点ではあまり詳しい内容まで踏み込まないようにしようと思うけど、最後まで読むと意外にもベタな小説とも言えて、そこも含めて面白かった。)
書き出しを読んで、今回はいかがわしい感じ全開でゆくのかと思ったのだが、意外にもそうでもなくて、終盤に唐突に出て来る生々しい恋愛のエピソード(これをどう考えればいいのかについては、一読しただけでは判断は保留したいのだけど)も含めて、先の予想がつかないという点では前作と同様なのだけど、前作では、語りの視点が世界に遍在しているというか、視点のありかが掴めないで、語りが生まれ、語られることの傾向(偏向)が生まれるのと同時に世界のあり様が決定されているような感じだったのに対して、この作品では、語りが一人の人物(というか、三十歳前後の男性という、ひとつの身体)に収斂することによって、世界のあらわれと、身体の振動(発熱)とが一致して生じているかのような、読む人の身体に直接的に作用するような感じになっていた。(それはぼくが男性であり、三十歳という年齢を既に経験しているから、ということもあるかもしれないけど。)前作が、捉えどころのない掴み難さによって人を世界の運動そのものに直面させるようなものであったとすれば、この作品はもっと直にくる感じ、と言えばいいのか。小説家としての磯崎憲一郎の「地」は、もしかすると二作目の方にあるのかも、とも感じた。
●この小説では、皮膚が痒くなったり、整髪料が粉状になって散ったりと、アメリカの空気の乾燥についての描写があるのだけど、そのような描写以上に、磯崎さんの文章そのものに湿り気が感じられなくて、それが描かれていることとすごくフィットしていて、情緒的に思える場面も湿り気がなくて、そのことがこの小説の清潔感につながっていると思った。
●(追記)前の部分で「ネタバレ」みたいな書き方をしたのは全然正確じゃなくて、「眼と太陽」を最初に読む時、ひとつひとつの文の面白さを読み、そして、その文と次の文との関連や発展や飛躍の面白さを読んでゆくのでまずは精一杯で、小説全体を通してある主題というか、方向性のようなものまでは、今、文を読んでいるその時には思い至るところまではいかないままで読み進め、そして最後まで読んでいった結果として、いままでのところを振り返れば、この小説には明らかに「主題」と言えるものがあって、様々な細部がその主題をめぐって書かれていたのだと事後的に納得するのだが、すくなくとも最初に読む時には、その「主題」を前もっては知らないままで読み始める方が面白く読めるだろう、ということで、別にこの小説の最後にどんでん返しがあるとか、大きな仕掛けがあるとか、そういう意味ではないのだった。ちょっと誤解されるような書き方だったかもしれないので、追記しておきます。