08/04/08

●「眼と太陽」(磯崎憲一郎)をもう一度読んだ。(『肝心の子供』をはじめて読んだ時には、その日のうちに三回繰り返して読んだのだったが。)とりあえず一度は最後まで読んでいるので、全体の流れなどは分かっているはずで、最初に読んだ時よりは多少は余裕をもって読めるかと思ったのだが、最初の時よりもさらに動揺させられた。この小説を読むという経験はまさに「動揺させられる」という感じで、『肝心の子供』の、世界の内側にいるのか外側にいるのか分からないような不思議な感触とはまた違って、右も左もわからないままで世界のただなかに放り込まれる感じなのだった。
●主人公の仕事仲間で、いつも近くにいながらもその存在感の希薄さでかえって印象的な遠藤さんという登場人物がいて、その遠藤さんが突然、過去にあったピアニストとの恋愛の話を長々とするところがあって、そのピアニストの彼女の演奏会に行ったら、隣りの席に彼女の父親としか思えない人物が座っていて、なぜかすごく不機嫌そうだったという場面で、次のように書かれている。《咽びながら俺を睨みつけ、そのままいまにも胸ぐらをつかんで、座席のかげに倒し、思い切り殴りそうだった。》「いまにも」と「殴りそうだった」によって、実際に俺-遠藤さんが殴られたわけではないと分かるのだが、しかし、意味として、実際に殴られたわけではないと分かるのは「いまにも」と「そうだった」によってだけなので、それを読んでいる側は、イメージとしてはほとんど「殴られている」ところを想起してしまうわけで、このようなイメージと意味との分離というかズレみたいなものの作用が、この小説ではかなり大きなものとしてあるように思った。実際に起こらなかったことも、そう「書かれている」以上、起こったことと同等の強さをもつ。しかし、それは起こらなかったと否定される。それによって、ほとんど「殴られた」ところを想起した読んでいる側の感情が、するっと宙につられ、宙につられることでかえって、もやもやとしたまま存続する。「殴られた」世界と「殴られなかった」世界とが分離して、同時に存在しているかのような。