08/04/09

●「新潮」5月号の「小説をめぐって三十七」(保坂和志)のものすごい圧力(筆者の頭のなかの発熱や振動がそのまま伝わって来るような)に押されるようにして、本棚から「I.W---若林奮ノート」を取り出して読んでいた。若林奮の文章は、魅力的だけど難解で、ところどころほとんど意味が取れないところがある。しかし、その意味不明なところまで含め、このようにしか書き様がない、このように書かれる必然性がある、というようなものになっているので、その分からなさを噛み砕かずにまるごと受け止めなくてはならない。磯崎憲一郎の文章や、保坂和志の文章や、若林奮の文章を読んでいると、文章を書いている時の自分は、全然芸術家じゃないなあ、と思う。絵を描いている時は、分かり易さとか通りの良さなどはまったく考えずに(そんな余裕はない)、ただひたすら「これ以外にありえない」という地点を探しているのだけど、文章を書く時ははじめの発想からして違うのかなあ、と。
ただ、50枚とか60枚とか、ある程度のまとまった長さのあるものを書く時は、先がみえないとか、余裕がないという点で、多少は絵を描く時に近づいているのかなあ、とも思う。10枚くらいだと、ある程度フレームがみえているから、どうしてもフレーム内の配置とか操作のような感じになるけど(フレームを空間的に把握すると時間が消えてしまう、絵を描く時は、はっきりとフレームが見えているにもかかわらず、あたかもそれが把握できていないかのような状態で描くにはどうればよいのかが、大きな問題となる)、50枚とかだと、(ぼくにとっては)フレームが大きすぎて全体をあらかじめ把握できないから、後でつじつまがあわなくなるかもしれなくても、端っこから一つずつ順番に書いてゆくしかしょうがない、という感じになる。