08/04/10

●必要があって「わたしの場所の複数」(岡田利規)を、ほとんど一行単位でメモをとりながら読む(それはちょっと大げさで実際には2、3行ごとくらいかもだけど)ということをやっているのだけど、そうすると、この小説がいかに緊密に構築されているのかが分かってあらためて驚く。ゆっくりとたちあがり、細かな振動(あるいは断層)が徐々に増幅され、不安定にゆらゆら揺れながら力を溜めて、ある地点でふいにジャンプする、という運動が何度か繰り返されることで、奇跡的なラスト(というか、隣りの女の視線)に到達する。(この女の視線を、ぼくは以前書評で、ちょっとわざとらしいのではないかという風に書いたことがあるのだけど、完全にぼくの読み方が間違っていました。ごめんなさい。ここに到達するためにすべてがあるとさえ言えるのかも。)詳しい分析はここでは書かないけど、部屋のなかで一人の女性がごろごろしているだけの小説なのに、ほとんどジェットコースターみたいな動きを感じる場面さえある。
しかし驚くのはその緊密さそのものだけでなく、夫婦の感情が切迫してくる場面になると、作品のなかに引きずり込まれてしまい、「一行ごとにメモをとりながら読む」というようなことがまったく不可能になってしまうというところだ。あらゆる歯車がかみ合っているような緊密な構築性と、「この時」だからこそこのように書けた(「この時」でなければこうは書けなかった)というようなあやうい一回性とが両立している感じにはらはらする。
(多分、あとでいくらでも直せる、という意識で書くと、後者が決定的に失われるのだと思う。)