●『彼方からの手紙』(瀬田なつき)をDVDで(「東京藝術大学大学院映像研究科第二期生修了作品集2008」)。確かにこれは驚くほどすごくよく出来た映画だと思う。でも、ぼくには、観ている間じゅうずっと、どこか「気恥ずかしい」という気持ちが抜けなかった。特に、少女と男-父がドライブをする一連のシーンの間は、むずがゆいというか、恥ずかしいというか、いたたまれないというか、それが耐えられなくて何度もストップポタンに指をかけたほどだった。映画としての洗練や充実にひっぱられることによって、なんとか踏みとどまって最後までつづけて観はしたけど。
この「気恥ずかしい」という感覚は、ぼく個人の資質なり好みなり生い立ちなり屈折なりに起因するものでしかないのかもしれず、だからぼくはここで、たんにこの作品とぼくとの相性が悪いということだけを言っているに過ぎないのかもしれないし、そうではないという保証はどこにもない。だとしても、ぼくは、人の作品を観る時でも自分で作品をつくる時でも、まずは自分自身に生起するこのような感情を指針(触角)とするしかないので、もう少しこの「気恥ずかしさ」について考えてみたい。
特に恥ずかしいと感じるのは例えば、車のなかで男と少女が唐突に「勇気」とか「未来」とか言い合う場面とか、観覧車のなかでしりとりする場面とか、観覧車から降りるとベンチに歌を歌っている人がいたり、そのすぐ後の場面で少女がその同じ歌を口ずさんだりだとか(この曲自体は好きだが)、少女が車から降りる時、まずドアが開いて靴が地面に落ち、次いで素足があらわれるとか(オヤジ臭い描写!)、川を隔てた羽田空港の手前での会話や仕草(「オレたちだってふわふわしてるよ」とかいう台詞臭くないですか、その後二人ではしゃいでるとことか、引かないですか)とか、オセロをしていて負けそうな少女が「あっ」とか言って駒を隠すとか(その仕草-行為そのものも恥ずかしいし、いかにもその駒をあとで生かすための複線っぽいっていうのもどうも…)、その後のデコピン(これマジで恥ずかしくないですか?)とか、地球儀をクルクルとか、男がテレビモニターをハンマーで壊すとか、部屋のなかに白くてふわふわしたものをまき散らすとか、男が自転車を盗むとか、その自転車を漕ぐのが何故かいかにもロングショットが絵になる風景の港だったりとか、こういうのみんな、どっかで観たことあるというか、いかにも(括弧付きの)「映画的な場面(描写)」で、おそらくそういうのは、今、映画をつくることについて真面目に考えるのなら、一定の距離や躊躇を介してでなくては出来ないことなんじゃないだろうか、と感じてしまう。あと、少女に「わたしの世界はかわらなかった」とかそういう生硬な言葉を平気で台詞として喋らせてしまうところとか、そんなこと普通言わないでしょうと思う(台詞は全般的にクサイと思う)。映画全体が「少女」の身体に賭けられる時に、そこでその身体に加重をかけるやり方が、ヌーヴェルヴァーグ以降、何度も繰り返された(古びた)クリシェの内部に過不足なく収まってしまっているというのか。つまり出て来る少女の造形が恥ずかしくて、おそらく、今、普通の感覚だったら、一定の屈折抜きには「少女」をこんな風に造形することは出来ないと思うのだ。それが非常に洗練されたものであるとはいえ、というか、洗練されたものであるからこそ、「えっ、今、それを平気でやっちゃうの」と、むずがゆくなる、のではないだろうか(最後の方でタバコとか吸わせているのを観た時には、ああ、と思った)。
この恥ずかしいという感覚は、おそらくフィクション-映画と現実との間にあるはずの齟齬が充分に吟味されていないという感じなのだと思う。とはいえ、映画としては驚くほど良く出来ているとは言える。でも、ということは、この映画では「映画」にならないものはすべて事前に検閲され、調整され、簡単にバッサリ切り捨てられてしまっているということだなのではないだろうか(つまり、この映画の少女の身体は「古い映画」であらかじめ象りされている)。カットの切れ方、繋がり方、人物の動きやフレーム、それによる空間の把握-分節-合成、それらすべては非常に格好良く決まっていて、でも、それを支えている(それ以前にあるはずの)世界の細部への感触や世界との接点、触れ方が、ぼくにはどこか通り一遍というか、紋切り型を疑っていないようにみえて、どうしても「恥ずかしい」と感じられてしまう。映画の細部の隅々までが何の齟齬も躊躇もなく「映画」でしか出来ていない映画って、それは「嘘」ってことだと思う。この映画の構成、構造、あるいは広義のモンタージュは良く出来ているのかもしれないが、細部の感触の一つ一つのいちいちが、ぼくにはどうにも恥ずかしい。
ごく普通に考えて、見ず知らずの(まあ、親子ではあるのだけど、親子であったとしても)、二十代後半の男性と十代半ばの女性との関係が、こういうようなものであることは、ちょっとあり得ないのではないか。この映画の前提となるその部分からして、ぼくにはちょっと「信用出来ない」という感じがしてまう。
最後の方の、少女がゲームセンターでゲームをしている場面と男が車を運転している場面とのカットバックとか、これもほとんどラストで、二つの異なる時間-空間が、階段という共通した場の、見上げる視線(父)と見下ろす視線(娘)によって繋がる場面とか、ああ、いいなあ、冴えてるなあ、とは思い(つまり、少女と男-父とが別々にいる場面は、それほど恥ずかしくはなくて、いい感じなのかも)、へえ、こんなことをさらっと出来てしまうんだ、すげえな、と感心はする。
この作家に、半端ではない才能があるのはおそらく間違いがないとは思う。それは、生まれつき地肩が強くて速い球を投げられてしまうピッチャーみたいなもので、おそらくは他の人には困難なことが割合容易に出来てしまう「選ばれた人」ってことで、そこを否定する気はない。この映画は確かによい映画だと思う。でも、ぼくにはとても恥ずかしい。この作品にどうしようもなく恥ずかしさを感じるのは、ぼくだけなのだろうか。