●渋谷のアップリンクで『この空の花』(大林宣彦)。すごいすごいという評判を聞いていて、どんなにすごいのかと思っていたが、やはりすごかった。ただこの「すごさ」に対して、微妙な感じをもちはするのだけど。
●どんな席でも、俺が俺がと前に出て喋りたがる人がいる。声がでかくて、人の言う事は深く考えずに通り一遍の解釈で受け流し、とにかく自分の言いたいことだけを言う。でも、そういう人に限って言っていることはありきたりだったりする。この映画は、そういう人が延々大声で喋り続けているような映画だとも言える。がんがん喋りまくる。しかも、しつこく同じことをいろんな側面から何度も繰り返して喋る。それを聞かされているうち、その声の大きさ、その割には調子が単調であること、そして同一内容のくりかえしに、うんざりしているのか感動しているのかよく分からない感じになってきて、とにかく圧倒されてしまう。そういう感じ。
●だがこれだと、あまりにもネガティブな言い方になりすぎている。確かに、そういう「印象」を受けた。しかし…。
●とにかく言いたいことは言い残さないように目いっぱい詰め込み、遠慮せず、婉曲せず、どんどん言う。大事なところは単調さを恐れず何度でも言う。空気も読まず、批判も恐れず、とにかく率直に言う。別に面白いことや気の利いたことを言うつもりはない。ありきたりであることをおそれずとにかく言う。そのノーガードのストレートさが、逆説的に、時空をどんどん複雑にし、表現の次元を錯綜させ、形式をぐちゃぐちゃにする。逆に言えば、こんなに形式的にぐちゃぐちゃで、内容的にもとっ散らかっているのに、すごくストレートにメッセージを伝えようとする作品になっている、とも言える。この形式は、形式的な探究によるものでなく、おそらく混乱であり、そして、メッセージ的に筋が通っていれば混乱してもよいという選択なのだと思う。
●この作品が今までの大林作品と最も大きく異なっているのは、「映画」という特定のメディアに対する、執着、こだわり、ノスタルジー、愛、等々、といったものがきれいさっぱり洗い流されているところだと思う。おそらく「美的」であることへのこだわりがほとんどない。映画へのノスタルジーに替わって、歴史へのまなざしと人に伝えるという意思が現れる。しかしここで歴史とは、ある一つのパースペクティブの上に過去の出来事を配置し、意味づけをするというようなものではない。だから「伝えよう」とするのも○○史観というようなものではない。様々な過去の出来事が、ひたすら次々にリンクされてゆくというだけだ。
●天草に住む女の母は長崎で被ばくしている。その女が、別れた男を訪ねて長岡に行くと、長岡ではかつて、長崎に落とされた原爆と同じ型(ファットボーイ)の模擬原爆が落とされたのだという事実を知ることになる。長岡と合併した(中越地震で被害を受けた)旧山古志村出身の男は、故郷で東日本大震災を経験する。長岡には福島から避難してきた人々もいる。男は、中越地震からの復興を願うためにはじめられた花火大会の運営者でもあり、その関係でもっと古い歴史のある長岡の花火大会の主要な人物である花火職人と知り合い、話はその職人の祖父、父、本人の三代記から、花火職人の戦争体験やシベリア抑留へと繋がる。原爆と花火の構造の類似が指摘され、かつて長岡の花火を描いた山下清も物語に召喚される。女は天草の地方新聞の記者であり、同じく、長岡の地方記者であるより若い女性と知り合う。この二人は失恋を共有する。このように、様々な出来事が次々に連結され、受け継がれ、重ねられてゆく。
●登場人物は人形のようであり、出来事は言葉(棒読み台詞)や映像で「説明」され、観客にむかって直接語りかけられもする。ドラマが深まってゆくというよりスクラップブックに貼り合せられた資料がどんどん膨らむようにして映画はすすむ。映画はとても饒舌で、映像や台詞、ナレーションだけでなく、過剰な字幕によっても情報を補填し分厚く重ねる(「出来事を伝える」ことが目的なので、たとえば映像と音声と字幕が乖離するということは起こらない、逆に言えば、映像そのもの、音声そのものは、それほど信じられてはいない)。この映画の目的の多くを教育や啓蒙が占めているのは明らかで、観客への情報提供はしつこいと感じるほどに親切、丁寧である(そしてそれが「結果として」とても前衛的な形式を要請することになるのだと思う)。
●女や男の行動を通して次々にリンクされる出来事が歴史的資料や新聞記事のスクラップのようなものであるとすれば、出来事を「内的」に生きる審級として謎の一輪車の少女の存在がある。彼女は最初、すべてを知っている超越的な存在(『ベルリン天使の詩』の天使のような)であるかのように登場するのだが、実はこの映画で最も「内的なドラマ」の深まりを見せるのがこの少女と母親なのだった。次々とリンクされることで重ねあわされた雑多な出来事の束は、最終的にこの少女が主催する演劇を通して、長岡の空襲という場面に収斂してゆく。少女は、自分の死の場面を想像力によって再構築すること(=演劇)で経験しようとしているかのようだ。
●この長岡の空襲の場面はしつこいほどに、様々なやり方で反復される。歴史的資料として、回想シーンとして、演劇の練習場面として、紙芝居として、そしてクライマックスである演劇の本番として。そのなかで徐々に少女が「誰」であるのかが分かってゆく。だがこのクライマックスの演劇の本番の場面がぼくにはとてもしつこいように感じられた。紙芝居でたっぷり見せておいた上で、まだここまでやるのか、と感じられてしまう。とはいえ、このしつこさがある迫力に繋がっていることも否定はできない。前にも書いたが、しつこさに押し切られて感動させられてしまっている、というような。
●様々な事柄が次々とリンクされてゆくという構造がそのまま、過去から未来へ、古い世代から新しい世代に何かが伝わってゆくという主題に繋がっている。そして、少女は、その雑多な関係の網の目そのものを一つの集約した形象として現れたものなのだろう。
●いかにもチープなデジタル的な合成画面がけっこう頻出する(複数の風景を安易に組み合わせたり、窓の外の風景を合成したり)のだが、それがすごく面白い。この面白さについては一回観ただけでは詳しく分析できないけど、とにかく面白かった。
●この映画は、あからさまに「若者への教育と説教」が目的であり、しかも相当しつこい。にもかかわらず、そんなに嫌な感じにはなっていない。これは、これだけでもけっこうすごいことではないか。お説教であることをまったく隠そうとしていない清々しさが(それは「言いたい」気持ちを一切抑制しない鬱陶しさでもある)、リアリティの別の次元を開いているようにも感じられる。機会があれば、また改めて観て、もっといろいろ考えたいというような作品だ。
(追記。クライマックスの演劇の場面がどうにもすんなり受けいれられないのは、しつこいというより、「みんなで声をそろえて同じセリフを叫ぶ」からなのだと気が付いた。「まだ戦争には間に合う」というのは問いかけとしてはいいとしても、それをみんなが声を揃えて、声を張って、一斉に、という風な形で言われてしまうと、どうしても引いてしまう。)