●中野成樹+フランケンズ『44マクベス』を日暮里のd-倉庫で。二度目。演劇の一つの公演を、初日と楽日で二度観たのははじめて。それは、この作品がどうのという話だけではなく、「演劇」(というか、パフォーミングアーツ全般というべきか)というものに対するぼくの感じ方、受けとめ方がかわるような出来事だった。公演というのは、それ自体として作品であり、作品の提示であるのと同時に、作品の制作過程の一つでもあり、まさに、人前で行われつつ、作品が練られ、同時にその追求が行われつづけてもいる、ということなのだなあと思った。言ってみれば、観客は決して作品の完成や、作品の全体を観ることは出来ず、それが出来上がって行く過程(あるいは、場合によっては崩壊してゆく過程、かもしれない)の一つの断面を目撃するに過ぎないのだ、と。作品が徐々に出来上がってゆく、あるいは、動いてゆく、練られてゆく、崩れてゆく、過程の全てを知っているのは、それをつくっている人たちだけであり、観客はそのどこか一点でそれと出会い、その過程のどこかに立ち会うことが許されているだけなのだ、と。演劇が、実際に観客を前にして行われること、その時、その場で、目の前にいる観客に「向けて(対して)」だけしか行われないことについて、ぼくはずっとひっかかりを感じていた(勿論、今もそのひっかかりが完全に消えたわけではないが)。「作品」が観客に対して、その全貌を、完成形を提示するものだという前提に立つ限り、その事は、たまたまその場に居合わせただけの観客を、「神」のような位置に置いてしまうのではないか、と。しかし、そのような前提に立たなければ、つまり、観客は、作品の全貌をその外側から眺るのではなく、「作品」そのものの生成過程の一部分を、たまたま、いわば「お裾分け」のように与えられるだけなのだと考えれば、かなり納得が出来るように思われる。出来上がった作品があって、観客がそれを眺めに後からやってくるのではなく、観客という個々の視線は作品の一部分しか捉えることが出来ず、作品の生成の一部分に組み込まれている、というのか。だとすれば「演劇」は、目の前にいる観客に「向けて」つくられるのではなく、観客は作品の一部でしかなく、もっと大きな、抽象的な「何か」に捧げられているとも言える。演劇が、たんなる「興行」ではなく「作品」だというのは、そういうことなのではないかと思った。
ただここで、具体的な他者である個々の「観客」へと向かう関心や配慮を簡単に切り捨てて「純粋化」してしまうと、とたんにそれは退屈なものになってしまうのだろうとも思う。もともとフランケンズが面白いのは、そこらへんの絶妙なバランス感覚にあるのだ。作品への誠実さは、実際の観客(あるいは「現在」)への誠実さと相容れないものではないにしても、ぴったりと重なるとは限らない、というなかでどうするのか、と。作品であると同時に、興行でもある、という微妙さのなかにこそ「演劇」がある、というのか。
●作品の基本的な方向性に変化があるわけではないので、初日の感想は基本的にはかわらない。しかし、ラストがまったく逆の感じになっていたし(予言は依然として力をもち、構造が繰り返し反復される、という終り方だったのが、未来の変化への希望に開かれて終る終り方、つまり魔女の予言の磁力に抗い得るかもしれないという終り方にかわっていた)、初日と比べるとびっくりするくらい練り込まれていたようにみえた。中野成樹+フランケンズが「マクベス」をやるということの必然性が明確にみえてくる、というところにまではいってないと思うのだが、それでも、充分にフランケンズの公演であることが納得できるような充実したものにはなっていたと思う。特に、大勢の俳優が一度に登場する場面の練られ方が断然に違ったように思った。公演をすることそれ自体が、作品を練り上げ、追求してゆくことの一環なのだということが感じられた。観ながら途中で、初日にみた時、もっとも上手くいってないと思われた四幕はどうなっているのだろうかと思っていたのだが、ラストを真逆にしたりとか、いろいろやってはいるけど、やはり四幕の作り方は基本的な方向性として上手くはいってないんじゃないかと思った。とはいえ、楽日だからといって、これが作品としての完結でもなければ、完成形というわけでもないのだということが、初日と楽日との両方を観ることで感じられた(それは、初日が外れで楽日が当たりとか、そいうい簡単な話ではなく、両方観たことで、日々動いてゆくということが感じられた、ということだ)。『44マクベス』の再演があり得るかとか、そういう話だけではなく、この作品で見出されたものは、またそのまま次の作品に継続されるのだろう、という意味においても。