●絵を描いていて、途中でちょっと頭がぼーっとして眠くなったので、そのままアトリエの床に横になり、筆の絵具を拭うためのキッチンペーパーのロールをマクラにして少しウトウトして(こうして十分も寝るとすごくスキッとする)、目が覚めたら、制作中の絵だけでなく、アトリエにある全ての作品が黒い塗料でべったりと塗り込められていた、という夢をみた。
●ネットカフェで調べもの。なんかすごくめんどくさい。
●『かつて明日が』(渡邉寿岳)をDVDでもう一度観た。この映画は、作品として面白いという以上にそそられるものがある。つまり、これを観ていると自分でも映画がつくりたくなる。この映画のフレームは、あきらかに「人間」を中心から外しているのだが、そこに人間がいないわけではない。何かを定点観測するために設置されたカメラとか、あるいはセルフタイマーで自分を撮ろうとして設置したカメラが、人の肩かなんかが当たって、フレームがズレて他所を向いてしまって、そのまま気づかずに撮影されたかのような映像がつづく。カメラが撮る映像は、人間の視覚が人や物に注目する仕方とはまったく別の原理で映像を撮影する。この映画ではまず、その「違う感触」そのものが新鮮なのだが、しかしここで目指されているのは、そのようなカメラの視線の非人称性といったものだというわけではないようなのだ。この映画にあるのは、人間の視線と、カメラの非人称的な視線との、どっちつかずの中間にあるような視覚のように思われる。誰でもが見たことのある光景が、誰も見たことのないようなやり方で示されている。人の視覚が、カメラがたまたま撮ってしまった映像に導かれて「人」からすこし離脱し、同時に、当然カメラは人によって操作されるのだから、カメラの視線も人にやや近付く。互いが、相手から触発されて、少しずつ自分自身からはみ出した交点にこの作品がある。この映画に撮影されている作家自身の部屋(だと思われる)を見るかぎり作家はシネフィルだと思われるのだが、しかしこの作家は、映画史と関係するよりも、カメラや録音機材といった「機械」と直接的に対話しているようにみえる。というか、そういうところこそが面白い。この映画が「そそられる」というのは、この方向はもっと追求する余地があるように思え、もっと面白いものが出て来る余地があるように思える、ということだ。
あと、二度目に観て、最初に観た印象よりもずっと「音」が作り込まれているということに気づいた。この映画は、映像というよりも、むしろ音によって成り立っているというべきなのかもしれない。音のつくりかたは、ゴダールというよりもソクーロフにちかい感じだ。