2021-12-01

●●(11月30日で配信は終わっているが)何の予備知識もなく、『アイランド 序』『アイランド弐』(犬飼勝哉)を観てみた。エンタメ系の物語でも、これ(このような形式)で十分いけるものなのだな、と思った。

犬飼勝哉『アイランド 弐』特設サイト

SCOOLのような小さくてニュートラルな空間と、何人かの俳優、何人かの技術スタッフ、いくつかの照明とカメラ、それに音響機材があれば、Netflixのドラマみたいに大きな予算と大きな規模の人材の動員がなくても、エンタメ系の(物語の構えの大きい)面白い連続ドラマをつくることも十分に可能なのではないかと感じた。

小さなスペースでの「上演」のノウハウがあれば、上演+撮影+編集によって演劇と映像のキメラのような(たんなる上演の記録映像とは異なる、新たな可能性を追求し得る、またエンターテイメントとしても十分な面白さをもち得る)映像作品をつくることができて、そしてそれは少なくとも小さなスペースでの「上演」よりも(配信などを通じて)多くの人の目に触れやすいのではないかと、素人ながら考える。

(多くの人の目に触れれば良い、あるいは、触れた方がよい、というのではないが、しかし「お金になりやすい(お金になる可能性が少しでも増える)」ということは常に重要ではないか。)

『盆石の池』(関田育子)や『アイランド』(犬飼勝哉)は、本当に「この形」としてやりたかった、というよりは、コロナによって上演が出来なくなって、苦し紛れに考えだされた妥協の産物なのかもしれない。しかしそれが結果として、上演と映像との新たな連結の形式を生み出していて、そこには大きな可能性が潜在しているように感じられる。

この可能性は、映画や映像のものというよりは、演劇に潜在していた可能性であり、演劇の可能性がカメラによって拡張されるということであるように思われる。つまり、いまのところ、上演のノウハウを持っている人たちこそが、この可能性に開かれている。カメラによって何が変わるかと言えば、それはおそらく観客の有り様(観客の身体)が変わるのであり、それによって観客と俳優との関係が変わるのではないかと思う。

(一方で演劇=上演がカメラと出会う、という出来事が生じているとして、他方、映画=映像が舞台や上演と出会うという出来事が招じているのが、高橋洋映画美学校フィクション・コースによる実践ではないか。)

映画『うそつきジャンヌ・ダルク』(高橋洋監督・監修) - YouTube