●昨日というか今朝なのだが、午前三時過ぎにアパートの上空をヘリコプターが飛ぶ音が聞こえて目が覚めたた。何かあったのだろうか。
●読んだのは昨日なのだが、青山七恵「山猫」(『かけら』所収)を読んだ。以下は、まだこの小説を読んでいない人は読まない方がいいかもしれない。
読んでいる間は、とても丁寧に書かれた、いかにも小説らしい小説という印象だった。しかし、最後の段落を読んで、驚いた。最後の段落で、そこまで読んできたすべてがひっくり返るというか、それまでとは反対側からの視線があらわれて、その視線の存在感が、遡行的に小説全体に覆い被さる。手袋を脱ごうとして、くるっと裏返しになってしまった、みたいな。
東京に住む新婚の夫婦の部屋に、西表島から来た、奥さんのいとこの高校生が短い間滞在するという話で、小説では、西表島から来た女の子は、常に夫婦の側から「見られる」存在としてあった。だから、異物としてのいとこの存在によって、夫婦の関係の微妙な機微が浮かび上がるというような小説のように読める。そのような小説として読むならば、いとこの女の子の存在は、タイトルの示す通りの「山猫」というような比喩に過不足無く収まるものでしかないだろう。
しかし、最後の段落でいとこの女の子の側からの視線が意識されたとたん、その視線は一気に、そこまで書かれてきた全ての部分にまでゆきわたるよように感じられる。つまり、一方的に見られていると思われたこの女の子こそが、実は夫婦を見ていたのだ、と。その途端この女の子は、小説内で機能する装置から、まさに実在するとしか思えないような厚みをもった人物へと変質する。この時に突如、栞といういとこの女の子の存在が、文学的な比喩という形象からはみ出す。というか、「小説」からさえもぐぐっとはみ出してくるように思われる。この唐突にわき上がるリアリティに感動して、そもそもこの物語を語っていたのは、この女の子なのではないか、とさえ感じられてしまう。それは言い過ぎだとしても、この小説で展開されることすべての裏側に常に、顕在化されていない形で栞の視線があったということが強く印象づけられる。
正確には最後の段落というより、最後の一行でひっくり返るのだが、その最後の一行を導き出す、最後の段落全体の、時間的、空間的な飛躍がすばらしいのだった。いわゆるミステリ的などんでん返しとはまったく別種のやり方で、世界そのものが書き直される。そこで示されているのは、たんにある視点から別の視点への転換というだけでなく、その双方の視点の間にあるブランクであり、その厚みであろう。そしてそれが、ある時間の差として示されているのもいいのだと思う。
あともうひとつ、ぼくにとってとてもリアルに感じられたのが、小説全体の流れや構成からみれば唐突としか思えない場面で、いきなり夫が妻の《彼女の前にひれ伏して拝みたいような》美しさを感じる場面。なぜ、この場面でいきなりそんなことが書かれるのか分からないのだが、だからこそ、きっと本当にそうなのだろうと納得するしかない感じ。
文藝賞授賞式のパーティ。人がたくさんいるなかでも、食べ物をゲットできるようにはなった。佐々木中さんとはじめてお会いした。佐々木さんは、あらゆる意味で衝撃的。ぎりぎりで終電に間に合って帰り着くことが出来た。いざとなったらタクシーで帰れる距離に住んでいる人の言うことは、もう何も信じないことにした。