●その気になっていたので、かなりがっかり、という電話を受ける。電話を受けた時は、まあ、そういうことも当然あり得るだろうなあという感じだったのだが、時間が経つにしたがって、だんだんとダメージが大きくなってくる。この話自体にダメージを受けるというよりも、現状は、自分が感じているよりもずっと厳しいものなのだなあということがじわじわ感じられてくるという意味でのダメージ。でもまあ、望みがまったくなくなったわけではないのだと思うので、こういうこととは関係なく淡々とやってゆくことにする。というか、こういう話に一喜一憂すること自体が、お前、ちょっとふやけてんじゃねえのか、ということなのだ。以下の文は、自分を叱咤する意味も込めてのこと。
●芸術は、社会のなかにあるのでもないし、社会の外にあるのでもない。社会こそが、芸術のなかにある。それは、言語が社会の中にあるのでも外にあるのでもなく、社会こそが言語に内包される、というのと同じ意味でそうなのだ。そしておそらく、哲学や宗教もまた同様。それらは社会よりも大きなもので、社会はそれらによってはじめて可能になり、下支えされる。芸術の社会的な役割とかを問題にするのは、その点で間違っているように思われる。芸術とは、社会を成立させる、その起点にある動力源のひとつであって、社会の内部で機能したりしなかったりする要素のひとつではない。
ここで、言語において主体は言語そのものであって、言語を使う人ではないのと同様に、芸術の主体は芸術そのものであって決して個々の芸術家ではない。
●とはいえ、芸術作品は常に、個々の作家によってつくられ、個々の作品としてたちあらわれる。だから、個々の作家、個々の作品によって、それぞれ異なった組成をもち、形をもち、射程をもち、内容をもつ。そこに寄り添うことなしに芸術に触れることは出来ない。芸術は、宿命のような、それぞれに異なった立ち現れ方によってしか顕在化しない。一般的な、あるいは全体的な、唯一正しい芸術などあり得ない(おそらく、そこを目指すと常に間違う)。芸術は決して包括的なあらわれ方をしない。全体性を目指さない。いや、その固有性のそれぞれが、世界のなかにある「複数の全体」のうちのひとつなのだ(それぞれが絶対的であり、相対主義とは根本的に違う)。それは、ある固有の形態(「メディウム」ではない)の「必然性」としてのみ正統化されるだろう。だから、芸術作品について「○○が足りない」という批判は意味をもたない。批判があり得るとしたら、必然的ではない、外的な要素に頼っている、あるいは、自分自身を支える十分な強さをもたない、あるいは、根本的に間違っている、あるいは、たんに面白くない、というものだろう。唯一の正しさはなくても、その固有の形態にとって正しいか間違っているかという判断は当然ある。
●そして、その上で、複数ある絶対性の間に「参照関係(競争でも融合でも、もしかすると対話でもなく)」を成り立たせるのもまた、芸術の力だと思われる。